une Sable nouvelle a L'eau de rose タイをなおして

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  タイをなおして


  1

 ギンナンを拾う時の志摩子はとても幸せ。
 人の目も気にせず、自分のしたいことを、そのまましていていいのだから。
 志摩子にとって、それは数少ない特別なことなのだ。
 秋の放課後の銀杏並木。
 スカートの後ろを膝裏にたたみ込んでしゃがみ、こうしてひたすら熱心にギンナンの実を選り分けて拾っていると。
 (今度はどんな風に料理しようかしら)
 なんて考えて、自然に顔もほころぶというものだ。それに今日は大漁の予感。
 串焼き、コロッケ、ベーコン巻き。
 磯揚げ、ひねり揚げ、茶碗蒸し。
 グラタン、ゼリーにギンナンケーキ。
 ひざ下でにじり歩く拍子にあわせて、志摩子が歌みたいに料理の名前をつぶやいていると。
 「楽しそうね」
 声がして、次にスカートから伸びるスラリとした足首が見えた。
 「紅薔薇さま」
 「いいのよ、続けて?」
 志摩子があわてて立ち上がると、その声の主は紅薔薇さまこと蓉子さまだった。
 続けて、と蓉子さまは言った。拾っていていい、ということだろうか。それともまさか、小歌を聞かれてしまった?
 「いいんです。もう、いっぱい拾いましたから。ごきげんよう」
 なんだか恥ずかしくなって、つい実のつまった袋を後ろ手に、頭を下げて挨拶してしまう志摩子。
 「ごきげんよう」
 蓉子さまも挨拶を返してくれる。いつもより、ちょっとかすかなほほえみ。
 笑ったりなんかしない。そう、不意をさらした志摩子に気づかってくれているのかもしれない。そう思うと、志摩子もようやくいつものほほえみを浮かべることができた。
 しゃがんでいたせいで歪んだタイをそっとなおしながら、志摩子は言った。
 「これから薔薇の館ですか?」
 「ええ。ちょっと、大学の図書館を眺めてきたの」
 「大学の」
 そうだった。蓉子さまは三年生、もうじき卒業なさるのだ。もう、大学での勉強のことを考えているのかもしれない。
 「ほんとうにいいの? もう拾わなくて」
 志摩子もお供して薔薇の館に行こうと、そう思ったのを察してか、蓉子さまは重ねて言った。
 「いいんです。本当に大漁、いえ、たくさんとれましたから。ごいっしょさせて下さい」
 「そう」
 邪魔をしたのでなければいいのだけど、と言ってほほえみ、蓉子さまは歩き出した。
 志摩子も、その少し後ろにひかえてついて歩く。
 蓉子さまと二人で歩く銀杏並木は、何か新鮮だった。初めてのことかもしれない。
 姉妹だろうか、二人づれの生徒たちが、何組も、こちらに会釈し、あるいはうっとりと眺めて通り過ぎていく。蓉子さまを見ているのだ、と思う志摩子。
 蓉子さまも会釈にはお返しする。少しだけ首を振って、優雅に。
 来年は自分も薔薇さまになる。
 こんな風に、立派にふるまえるようになれるだろうか、とやはり会釈など返しながら志摩子は思う。
 「白薔薇さまはやさしくしてくれる?」
 とうとつにお姉さまである聖さまの名を耳にして、志摩子は顔を上げた。
 「はい……ええ」
 「そう……」
 志摩子は肯定したのに。
 そう、と応えた蓉子さまのほほえみは、なぜか少し寂しげに思えた。
 「あなたが寂しく感じてなければ、いいのだけど……」
 はたして、蓉子さまは「寂しく」と言った。
 どうしてそんなことを言うのだろう、と志摩子は思う。
 姉妹になっても、聖さまと私の関係がそれ以前と変らないことを、心配なさっているのだろうか。だとしたら、それは無用の心配だと言いたい。
 私は寂しくなんかない。
 「わかってあげてね。あの子が距離をとるのは、あなたのことが……大切だからよ」
 蓉子さまはめずらしく言いよどんだ。たいせつ、という言葉の前で。
 「はい、わかります」
 強い口調になったのではないかと後悔した。志摩子はその時、少し、怒っていたのかもしれない。
 「そうよね、わかっているわよね。あの子が選んだ妹ですもの」
 許してね、と蓉子さまは言った。
 「今日は駄目ね、余計なことばかりしてしまうわ」
 そう言って苦笑する。
 志摩子はそれにほほえみ返すことで、許したことを伝えた。
 二人きりの時、蓉子さまはとても志摩子のことを気づかってくれる。
 聖さまの妹にと、志摩子を薔薇の館に引き入れた時のような強い態度は、もうみじんもない。でも、それでも志摩子がちょっと緊張してしまうのは、あいかわらずだった。
 蓉子さまは、とても大人だから。
 「よかった。あなたたちは、本当にいい姉妹だわ」
 「はい」
 ほほえんで言う蓉子さまの言葉に、またも志摩子は肯定したけれど。
 いい姉妹。
 聖さまと自分とが、そうであるかどうかはわからなかった。
 志摩子にわかっているのは、聖さまがかけがえのない人であること。
 だから、私たちはかけがえのない姉妹であること。
 私たちは離れているけれど、きっとつながっているということ。
 マリア様の像のある広場にさしかかった時だった。
 蓉子さまが不意に立ち止まり、そのほほえみがすっと消えたのは。

  2

 「いかがなさいました?」
 突然立ち止まった蓉子さまに、志摩子は平静をよそおって問いかけた。
 蓉子さまは一瞬に消える笑みを志摩子に見せて安心させる。あなたが悪いのではない、ということだろう。
 そして蓉子さまは、あれを見なさい、という具合にその方向に顔を向けた。
 そこには、やはり姉妹とおぼしき二人の生徒が向かい合っていて。姉の方だろうか、妹のタイをなおしている。
 「軽薄なものね」
 それを見ただけにしてはきついお言葉だと、志摩子が思った時。
 ようやく意味がわかった。
 他にもいたのだ。マリア様の前で、タイをなおす姉妹たち。
 今この瞬間にも一組が加わり、合計で四組の姉妹が、同時にタイをなおしている。
 それはちょっと奇妙な光景だった。
 けれどそれはそれだけのこと、としか思わなかった志摩子だが、蓉子さまにはいたくご不快なようだ。
 どうなさるのだろう。注意なさるのだろうか。
 志摩子が蓉子さまをそっとうかがうと。
 「行きましょう」
 と、蓉子さまは言って、再び歩き出しはじめた。どの姉妹にも向かわず、まっすぐ自然に、校舎の方へと。
 まるで魔法みたいだ、と志摩子は思った。
 蓉子さまが通りかかるや、姉妹たちはみな行為をやめて、恥じ入るようにして会釈するのだ。蓉子さまも何事も見なかったかのように、さきほどまでと同じようにして軽い会釈を返していく。
 注意するまでもない。ただ歩めばすべてが正されていく。
 これが薔薇さま、紅薔薇さまなのだ。
 蓉子さまの後ろ姿を見て、そう志摩子は感じた。
 「流行っているのよ、タイをなおすのが」
 マリア様の広場を過ぎてからしばらくして、ようやく再び蓉子さまが口を開いた。
 「流行っているんですか?」
 志摩子は知らなかった。けれどそう聞けば、思いあたる光景を何度か目にした記憶がある。
 「そう、祥子たちのまねよ」
 「ああ……」
 「学園祭が終わったばかりだし、仕方がないのでしょうけど」
 そう言って、しかし蓉子さまは何かを思い出したのか、苦い顔をするだけでなく、笑みも添えられた。
 蓉子さまの妹、つまり紅薔薇のつぼみである祥子さまと、志摩子のクラスメイトである祐巳さんとが姉妹の契りをかわしたのは、つい一週間ほども前、先の学園祭でのこと。いろいろなことがあってようやく結ばれたおふたりだったけれど、出会いのきっかけは、マリア様の広場で祥子さまが祐巳さんを呼び止め、タイをなおしたことだという。
 学園祭に展示された、その時の写真を志摩子も見た。時を切り取った、素敵で幸福な写真。
 今週の『リリアンかわら版』にも、シンデレラ劇を通じての文字通り劇的な姉妹成立のレポートが、載っていたばかりだった。さすがに志摩子も、まねをするなという方が難しいのではないか、と思う。
 「まあこれも、ようやく祥子に出来た妹が、祐巳ちゃんみたいな立派な子だった、報いなのかもね」
 などと言って笑う蓉子さまも、お幸せそう。
 でも祐巳さんを称して「立派」というのは、なんだかつい不思議に感じてしまった志摩子。
 祐巳さんは確かに、明るくて、元気で、可愛らしく、たくさん魅力のある人だけれど。クラスメイトでもある志摩子の知っているその印象の中に、「立派」というのは無かったものだから。
 でも、不思議に感じたのはやはり失礼かも、と志摩子はひそかに恥じた。それに聡明な蓉子さまのこと、きっと志摩子が気づかないような祐巳さんの美徳を見抜いているのだろう。
 「けれど、わざわざマリア様の前でタイをなおそうなんて」
 笑うのをやめて、蓉子さまが言った。
 「近づくことだけが愛ではないというのにね」
 志摩子はどきりとした。
 近づくことだけが愛ではない。
 そう言った蓉子さまのほほえみに、またあの寂しさを見たような気がして。
 それは聖さまと私の距離、聖さまと私の関係を言ってくれているのだろうけれど、なんだかそれだけではないような気がして。
 そのほほえみにある寂しさは、また蓉子さま自身のものでもあるような気がして。
 志摩子はハッとした。何かがわかったように思った。
 (「あなたが寂しく感じてなければいいのだけど」)
 志摩子をいらつかせた、その蓉子さまの急な言葉は。
 あなたも寂しく感じてなければいいのだけど、と言いたかったのではなかったか。
 あなたも、と。
 志摩子は息が苦しくなった。
 まさか、そんな、でも。
 わずかにうつむいた蓉子さまの顔をそっとうかがう。
 まさか、蓉子さまも、聖さまのことを……?
 聖さま……。
 聖さま?
 「白薔薇さま?」
 「あ、志摩子。それに紅薔薇さまじゃない、めずらしい」
 手をとめてこちらを振り向いたその人は、間違いなく白薔薇さまこと、聖さまだった。

  3

 校舎と体育館を結ぶ渡り廊下のわきで、聖さまは。
 聖さまは行列を作った生徒たちのタイをなおしているところだった。なんて言えばいいのだろう、こういうの。ぞくぞくとタイをなおす? もりもりとタイをなおす?
 「えっ、聖?!」
 と声に気づいて顔をあげた紅薔薇さまが。
 あれっ?!
 志摩子は目を疑った。
 今、蓉子さま、ずっこけた? ずっこけたように見えたのだけど。
 まさか、そんな、でも。
 まさか、蓉子さまでも、聖さまのことでずっこけるなんて。
 志摩子は目をこすった。
 蓉子さまは背筋をのばして凛然と立っている。
 やっぱり見間違いよね、と志摩子は安堵した。まぼろし、まぼろし。
 「こんなとこで何していらっしゃるのかしら、白薔薇さま」
 蓉子さまは氷のように冷たい顔をして、言った。
 「何って、タイをなおしてあげてるのよ、天使ちゃんたちの」
 ねー?、なんて言って聖さまは首を倒して、行列をなす十数人ばかりの生徒たちに同意を求めたけれど。
 さすがに紅薔薇さまである蓉子さまの剣幕を目の当たりにして、聖さまに調子をあわせることのできる生徒は一人もいなかった。
 蓉子さまはつかつかと聖さまに歩み寄ると、その片耳をむんずとつまんだ。
 「いてててて」
 「ちょっとこちらに来て頂ける?、白薔薇さま。ごきげんよう」
 その挨拶一声で、蓉子さまは行列の生徒たちを見事に散らしてしまった。逃げるようにして去っていく生徒たち。ほうほうの態というのは、こういうのを指すのか。
 蓉子さまはそのまま耳をつまんで聖さまを引いて歩いていく。連行されるというのは、こういうのを指すのかも。
 その二人の様子にほほえみながらも、聖さまの耳をつまんでいる蓉子の指を見て、志摩子は、ついうらやましく感じている自分に気づいた。
 「わかった、わかったから。行くから。耳、はなしてえ」
 聖さまが懇願すると、蓉子さまはすぐに耳をひっぱるのをやめた。
 「おお痛! ひどいよ蓉子」
 「ひどくない。悪いのはあなたよ、聖」
 「ええっ、どうして? タイをなおしてただけじゃない、それなのに、もう」
 ひっぱられていた耳をなでる聖さまは不服そう。
 校舎と体育館の間をぬけると、中庭がひらけた。薔薇の館も間近に見える。
 「あなたも知ってるでしょう、聖。学園祭からこのかた、むやみにタイをなおすのが流行っているの」
 「え、流行ってるの?」
 「またとぼけて」
 「とぼけてないとぼけてない。そうか、どうりで最近、多いなと思ってたんだ、タイをなおしてーって来る天使ちゃん。普段の倍くらいだもの、どうりで」
 「普段の倍ってあなたね」
 ため息をつく蓉子さま。
 けれど聖さまを叱るその口調は、最初とはうってかわって静かなもので。志摩子はそんなところにも蓉子さまの気づかいを感じてしまう。妹の目の前で叱られる、聖さまの面子を思ってくれているのだ。
 聖さまはまだお耳をさすっている。
 「でもさ、流行っちゃいけないの? タイなおし」
 薔薇の館の扉を自らすすんで開けながら、蓉子さまは理路整然と言った。
 「タイをなおすということは、身だしなみを整えてあげるということよ。でもそれが、逆に使われている。やりすぎは、悪いたしなみと言うべきだわ」
 「そうかなあ」
 「そうよ」
 蓉子さまを先頭に、聖さま、志摩子と並んで階段を登っていく。
 聖さまはもう耳をさすっていない。
 そこで志摩子は気がついた。
 (私、聖さまの耳ばかり見つめている)
 恥ずかしい思いにとらわれた志摩子。ここが一列になる階段でよかった。ほてった頬を見られないですむもの。
 「だから、薔薇さまの一人であるあなたが、模範を示さなくては困るの」
 階段を登り切った蓉子さまは、振り返って静かに言った。
 「でも、ほら」
 やはり階段を登り切った聖さま。声をひそめて言うと首を振って、二階廊下の奥を見て、と志摩子たちに合図した。なぜかニヤニヤしながら。
 志摩子が階段を登り切ると。
 「うふふ、ありがと。じゃあお礼に令ちゃんのタイもなおしてあげる」
 廊下の奥、扉の前で、由乃さんが令さまのタイをなおしているところだった。
 普段は少年のようにきりっとしている、黄薔薇のつぼみこと令さまが、見たこともないような顔をしていた。デレデレした顔というのは、こういうのを指すのだろうか。
 お二人は私たちの来着にも気づいていないのか、いわゆる二人の世界を作りつづけている。
 「はああ……」
 蓉子さまが大きなため息をついた。
 「あっ、ロサ、薔薇さま!」
 「えっえっ? あ、ご、ごきげんよう」
 そこで令さまも由乃さんもようやく私たちに気づいて、こちらの世界に戻ってきた様子。でもどうして、ため息に気づくのに、話し声や階段を登る音に気づかなかったのだろう。
 「ごきげんよう」
 とだけ返すと、なんだか疲れたご様子で、蓉子さまは令さまたちの前を通って茶色の扉の中に入っていく。ノックの音も、「入るわよ」の声も、なんだか弱々しい。
 恥ずかしそうに硬直したままの令さまたちに、にこやかに手をふって聖さまも続いて入っていく。
 「あ、紅薔薇さま、白薔薇さま、ごきげんよう!」
 こちらは祐巳さん。まだ慣れないせいか恥ずかしそうでも、元気いっぱいにご挨拶した。
 「志摩子さんもごきげんよう」
 「ごきげんよう」
 なんだか今日はずいぶんとめまぐるしい。
 祐巳さんに挨拶する志摩子は疲れてなどいなかったけれど、ついそう思ってしまった。
 なんだか今日はおかしな日。
 まだまだ何かあるかも、と。

  4

 「ごきげんよう、黄薔薇さま」
 志摩子は挨拶した。
 「ごきげんよう」
 薔薇の館の二階の部屋には、祐巳さんの他に、黄薔薇さまこと江利子さまがいた。
 この方はいつもかすかに物憂げな風情なのだけど、今日はそれがよりはっきり出ているように見える。これも気のせいなのかもしれないけれど、と思う志摩子。
 楕円のテーブルの上には紅茶のカップが4つ。
 あとの二つは令さまと由乃さんのものだろう。ということは、他にまだ来ていないのは祥子さまだけ、ということ。
 学園祭が終わって一週間ほど。書類関係の整理もあとわずかだから、今週からはこうしてふたたび三々五々集うことになっていた。
 その祥子さまの分も間に合うかどうか、志摩子が流しのポットの湯量を確認していると。
 「あっ、あっ、私も手伝う」
 と、ツインテールを揺らして、軽やかに祐巳さんが近づいてくる。
 「おっと」
 出ていた椅子に、ちょっとつまずきながら。
 つい、クスッ、と笑ってしまう志摩子。こんな風に笑いを引き出してくれるのは、聖さまのほかには祐巳さんだけ。
 「えへ」
 なんて照れ笑いしながら、祐巳さんはカップを用意する。
 「ええと、ひい、ふう、みい……」
 祐巳さんが用意したカップの数は、ちゃんと今来た人数よりも一つ多い、四つ。
 やはり志摩子はあたたかい気持ちになる。
 祐巳は本当にドジね、落ち着きなさい……、などと、姉妹になって間もないのに、祥子さまったら遠慮もなく祐巳さんを注意しているけれど。ほら。
 祐巳さんは、祥子さまのことにはとてもよく気のつくひと。
 志摩子が閉め切らずちょっとだけ開けておいた扉から、令さまと由乃さんがそろそろと入ってきて、これもまたそっと席についた。
 すでに席についていた蓉子さまは別に何も言わないけれど、それはそれで令さまたちにはこたえそう。
 「あれ、二人の世界はすんだのかなあ?」
 ゆっくりしててもよかったのに、などと隣の聖さまがすかさずひやかす。意地悪なようだけど、これが聖さまなりのとりなし方なのだと、志摩子は知っている。
 「いや、お恥ずかしい。面目ない」
 といって、テーブルに突っ伏すように頭を下げる令さま。あやうくカップに頭を当てそうになるのを、由乃さんが手でとめる。
 ぷっ、と聖さまが吹き出す。つられてか、隣の蓉子さまも笑っている。
 それを見てようやくほっとする令さまと由乃さん。
 軽く一仕事終えられた聖さまに、私はダージリンの紅茶を差し入れた。
 「ありがとう、志摩子」
 ほほえんで、私も自分の紅茶を置いて聖さまの隣に座った。
 「どっ、どうぞ、紅薔薇さま」
 「ありがとう、祐巳ちゃん」
 「どっ、どういたしまして、紅薔薇さま」
 「いやね、祐巳ちゃんたら」
 失笑する蓉子さま。祐巳さんが入れた紅茶の香りを楽しむにも、ご機嫌な様子。
 かつての志摩子自身も引きとめられた、薔薇の館の持つ不思議な回復力を眺めながら、志摩子もまた幸せな気分になっていると。
 「祥子が来るわよ」
 まだお盆を持ってかたわらにひかえていた祐巳ちゃんに、うれしい知らせ、とばかりに蓉子さまが言った。
 「えっ?」
 祐巳さんの顔がぱあっと明るくなるや。
 階段を踏む足音が聞こえてきた。いつもの祥子さまよりちょっと強い。
 あ、これは、と志摩子が思うと。
 「入ります」
 と言って扉を開けて入ってきた祥子さまは、やはりご機嫌斜めだった。
 「もう、軽薄なことったらないわ」
 「どうしたんですか、祥子さま」
 駆け寄ってきた祐巳さんに、祥子さまは一瞬顔をほころばせる。
 「ああ、祐巳。どうもこうもないのよ」
 言って祥子さまは、いつものように祐巳さんのタイをなおそうとした手を。
 ……そのまま下げてしまう。
 祐巳さんもなにかがいつもと違うことに気づいたようだったけれど。
 「あ、お茶、入れますね」
 不意の気まずさから逃げるようにして、流しに向かった。
 「どうしたの祥子」
 令さまが訊ねる。
 「流行っているっていうのよ、私たち姉妹のせいで、タ……」
 「祥子」
 さえぎるように、通る声で蓉子さまが呼び止めた。
 「お姉さま」
 わかっているから、と蓉子さまが目で語った気がした。言わなくてもいいのよ、と。
 そこで祥子さまも黙って、けれどいぜん憮然とした面持ちのまま、机をまわって席についた。
 やはり祥子さまは蓉子さまの妹だ、と志摩子は思う。タイなおしが流行っていることを、同じように嫌っているのだろう。
 令さまも察したのか、隣の由乃さんにそっと教えている。
 流しの祐巳さんを見ると、気のせいかちょっと寂しそうな背中に見えた。
 祐巳さんを妹にしてからの毎日、私たちの前でもかかさず祥子さまは祐巳さんのタイをなおしていたのだから。
 祐巳さんは、それが急に止められた理由を、わかっているのだろうか?
 こんなことがあってはならない、と志摩子は思う。
 流行ったからといって、まねされたからといって、ご本人たちの幸せが失われるなんて、あってはならない。
 そう思ったけれど、志摩子にはどうすればよいのかわからない。
 聖さまですら、軽く鼻から息をもらして、ひとまず静観なさるご様子なのだ。
 とても志摩子の及ぶところではない。
 「祥子さま、どうぞ」
 「ありがとう祐巳」
 祐巳さんに紅茶を出されてようやく、祥子さまは表情をやわらげたけれど。それもいつものほほえみには及ばないように、志摩子には思えた。
 「さあ、学園祭の後始末もあとわずか。みんなそろったところで、はじめましょうか」
 そう蓉子さまは宣言した。仕事しましょう、と。
 蓉子さまですら、そうするしかないと判断したのか。
 薔薇の館の不思議な回復力が、再び立ち現われることを志摩子は祈るしかない。

  5

 「使用申込書と許可書って、これだけだっけ?」
 「照らし合わせてみます」
 「やっぱり予算収支、合わないのよね」
 「私が検算しましょうか」
 「そうね、頼むわ江利子」
 「あ、じゃあ、手分けしましょうか。ね、由乃」
 「じゃ、じゃあなんていうか、お茶でも……おわっと」
 だんだん!
 「祥子、書類は丁寧に扱って」
 「……はい、お姉さま」
 祥子さまが書類にあたっているのは、いつもみたいに祐巳さんが椅子につまずいたからではなくて。
 今日、薔薇の館に来て以来、祥子さまはずっと不機嫌なのだ。 
 仕事を始めたためか、薔薇の館の空気はずいぶん普通にもどったけれど。それでも祥子さまの機嫌は一向になおる気配が無い。
 祥子さまのわがままにはみんな慣れていたからいいのだけど、まだ慣れてないひとが一人。
 その一人である祐巳さんも、先ほどから頑張って気を使っているのだけど。
 ふだんは元気な祐巳さんがなんだかしゅんとしていくのは、志摩子も見るにしのびなかった。
 祐巳さん、そして祥子さま。
 志摩子はいつのまにかこの姉妹を気に入っていたことに気づいた。他の人をこんなに早く意識するようになったのは、聖さまの後でははじめてのことだった。
 いたたまれない気持ちになる。
 「わかった。志摩子」
 「はい?」
 聖さまが頭だけズラして並べた書類を、人差し指でなでるようにしながら言った。
 「校舎のじゃなくて、第二体育館だわ。第二体育館のが、ない」
 「あ、じゃあ、私、下で探してきます」
 「悪いわね、よろしく」
 茶色の扉を出て、扉を閉めて。志摩子はつい、ほっと息を吐いた。
 上の部屋に持っていった分以外の、学園祭関係の書類はすべて、来年度に残さなくてよい捨てる書類とともに、倉庫かわりに使っている一階の部屋のダンボールに入れてあったはずだ。
 いたたまれなくなっていたところだったので、志摩子にはこの用事がありがたかった。
 これは用事で、だから偶然なのに、なぜかそこに志摩子は聖さまのやさしさを感じてしまう。
 階段を降りながら、志摩子はそんなことを考えていた。妹バカって、思う。
 一階の部屋に入り、電気をつける。
 ダンボールは中くらいのが二つ。まとめるのが先決とばかり、雑然と書類が積み込まれている。
 「おうちゃくは、面倒のもと」
 志摩子は家の片づけやギンナン拾いなどで、ほとんど座右の銘にしている言葉をつぶやいて。片方のダンボールの上の方の、持てるだけの書類を適当な束に持って、順に机の上に積みかえ、探していく。
 幸運なことに、それはその三束目にあった。
 「あった」
 時間別になった終日分の、第二体育館の使用申込書と許可書の束。
 他の書類をまたダンボールに戻して、電気を消して。書類を持って扉を閉め、階段を登ろうとした時だった。
 「ああ、もう!」
 志摩子のいる一階にも聞こえる、テーブルを叩く音と祥子さまの声。
 二階の扉が開いた気配とともに。
 「祐巳、ちょっと」
 という祥子さまの声が、これは空気を通してはっきりと聞こえた。
 そして祐巳さんの手を引く祥子さまの姿が階段の上に現われる。
 志摩子は反射的に階段のわきに避けて、隠れる格好になってしまった。
 まさに階段を昇りかけたところだったせいかもしれない。何がしかしようという、お二人の邪魔になってはいけない、そう思ったのだ。
 ところが二人は降りて来なかった。そして声がする。
 「だからタイがまがっているのよ、祐巳」
 何が「だから」なのか、志摩子にもわからない。
 どうやら階段を登ったあたりの廊下で、祥子さまは祐巳さんのタイをなおし始めたらしい。
 「ご、ごめんなさい、祥子さま」
 祐巳さんの声がちょっとおびえている。祥子さまは、どんな顔をしてタイをなおしているのだろう。
 くすっ、と祥子さまの笑い声が聞こえた。
 「違うのよ、祐巳。あなたに怒っているのではないの」
 いけない、このままでは立ち聞きになってしまう、と志摩子は思ったが、もはやさすがに出ていくわけにもいかない。今出ていったら、ますますの邪魔だ。
 「自分に怒っているのよ。他人にふりまわされた自分に」
 祥子さまの声はもう、穏やかなものに変っていた。祐巳さんを妹にしてから、祐巳さんにだけ出すようになった、あたたかでやさしい声。志摩子も他のみんなも、おそらく蓉子さまも知らなかっただろう声。
 「他の人は関係ないわ。私は自分がしたいようにする。そういう自分が好きなのよ」
 「わ、私もっ」
 「私も?」
 「あ、わ、じゃなくてっ。……素敵です、そういう祥子さま」
 クスクスと、祥子さまは笑って言った。
 「ありがとう。でも、あなたが教えてくれたことではなくて?、祐巳」
 「へ?」
 クスクス、と祥子さまはまた笑う。
 祥子さまの言いたいことは、志摩子にもわからなかった。ただ、祐巳さんを「立派」と呼んだ、蓉子さまのことを思い出す。お二人は、そんなところもやはり姉妹なのだ。
 「これでいいわ」
 祥子さまが言った。タイをなおし終わったのだろう。
 よかった、と志摩子も思った。本当に、よかった。
 この調和は薔薇の館の力によるものではなかった。祥子さまが、一人で勇気を出して勝ち取った調和だ。
 志摩子はそれをひそかに祝った。ひそかなつもりだった。
 「そこにいるんでしょう、志摩子」
 「えっ、志摩子さん?!」
 いきなり名指されて、志摩子はさすがに跳び上がった。
 仕方もなく、階段の下に歩みでる。
 「そうだったわ、一階で探し物をしていたのだものね」
 忘れていたわ、と言って祥子さまはほほえんだ。
 祐巳さんは顔を真っ赤にしている。
 「ごめんなさい。立ち聞きしてしまいました」
 「かまわないわ。わかるでしょう?」
 話を聞いたあなたならわかるでしょう、ということだろうか。
 他の人は関係ない……そういうことだろう。
 そう言った祥子さまの瞳は、穏やかだが熱い光をたたえていた。勝ち取った者の光。
 何かを勝ち取った時、この人はこんなにも美しい、と志摩子は感じた。
 志摩子にはそれは、まぶしすぎる美しさだった。自分にはとても手に入れられないだろう美しさに思えたから。
 わかるでしょう、という祥子さまの言葉に、志摩子はうなずいて、言った。
 「さあ、まいりましょうか」
 「そうね」
 祥子さまが踵を返した。長くつややかな黒髪が優雅に揺れる。
 志摩子は、その後につこうとした祐巳さんにだけ聞こえるようにして言った。
 「ごめんなさいね」
 祥子さまは祥子さまとして、祐巳さんには立ち聞きしたことを謝りたかったのだ。
 祐巳さんはまた顔を赤くして。ん、とうなずいてにっこり笑い、祥子さまについて行った。
 一人になった志摩子は、ゆっくりと階段を昇りながら。
 顔を上げたまま、まぶしそうに登った先を見つめる。
 そこは、祥子さまが祐巳さんのタイをなおした場所。
 祥子さまの、勝ち取った者の場所。
 したいことをし、けして恥じないと心に決めた者の場所。
 まぶしさは、登った先の廊下の窓の光のせいだけではなかった。
 階段を登り切った志摩子の視界に、扉のある廊下の奥が見えた。
 そこはタイをなおしあう、令さまと由乃さんの場所。
 志摩子の身体がふるえた。
 祥子さまと祐巳さん。
 令さまと由乃さん。
 私、うらやましかったんだ。
 ふるえを抑えるように、志摩子は両腕で胸をかき抱いた。
 私、きっと、聖さまに。


 お姉さまに、タイをなおして欲しいんだ。
 そう、志摩子は気づいてしまった。

  6

 二階の部屋に戻った志摩子は、聖さまに書類を渡さなければならない。
 「ありました。第二体育館の分」
 「あ、やっぱり。ありがとう、志摩子」
 聖さまの耳を見てしまう。聖さまのタイを見てしまう。
 聖さまはなんだかニヤニヤしている。
 隣に座りながら志摩子は、さとらていないかとドキドキした。
 せめて仕事に集中して忘れようと、志摩子がテーブルの上の書類に手をかけた時。
 なんと聖さまが顔を寄せて、耳元でささやいて来た。
 「ねえねえ、祥子たちさあ、帰ってきたら機嫌良くなってるのよ。志摩子なんか見なかった?」
 ひどい、お姉さま。こんな時に、耳に息が。
 志摩子が頬をほてらせ、つい恨みがましい目で聖さまを見ると。
 「え、なになに? なんかエッチなことでもしてたの? 祥子」
 聖さまはそれを誤解して、いよいよ興味津々という具合に訊いてくる。
 「ち、違います」
 「ええっ?、あやしいなあ。だって、そうじゃなきゃ、そんな顔しないじゃん志摩子」
 違う理由で赤くなっているだなんて、志摩子にはとても言えなかった。聖さまのせいです、だなんて。
 エッチなことしてたんでしょ、ねえねえ、なんてまだ耳元でささやいてくる聖さま。
 志摩子はまるで自分がエッチだと言われているような気がして。黙っていようと思っていたのに、とうとう堪え切れなくなってしまった。
 「タイをなおされただけです、祥子さまが」
 「えー、本当?」
 「本当です! ……あ」
 つい声が大きくなってしまった。部屋中がしんと静まり返って、全員が志摩子に注目している。
 「あはは、いや、何でもないの。書類のこと書類のこと」
 なんて言って、聖さまはさっき渡した書類の束を振ってごまかしてくれた。
 それでみんなは納得して、元の仕事に戻る。
 「声大きいよ、志摩子」
 聖さまがたしなめるようにささやいた。
 納得できないのは一人志摩子の方だったが、どうにもしようがない。
 聖さまは人の気も知らないで、第二体育館の分の書類も合わせて、とんとん、と。
 「じゃあこれで全部揃いってことかな。白組終わり!」
 なんて宣言する。まるで体育祭みたい。
 そこでようやく志摩子もクスっと笑うことができた。でも……。
 でも、聖さまが志摩子の耳元でささやく、そんなやりとりも、その間に祥子さまや祐巳さんをはさんでしか、してくれないのだ。
 そう思うと、志摩子は寂しくなった。
 こんなことは初めてだった。
 今までは、それでよかったのに。
 それで幸せだったのに。
 私は寂しくなんかない、と、ついさっき蓉子さまとお話ししていて確認したばかりだというのに。
 (「あなたが寂しく感じてなければ、いいのだけど……」)
 お姉さまにとって私が特別なひとであることは、知っている。
 (「あの子が距離をとるのは、あなたのことが……大切だからよ」)
 私にとってお姉さまが特別なひとであることは、知っている。
 (「わかってあげてね」)
 蓉子さまの言葉は、私の言葉と同じなのに、毒みたいだ。
 私、お姉さまにタイをなおして欲しい。
 (「近づくことだけが愛ではないというのにね」)
 でも、だから。
 わかっているから。
 私、そんなこと言えない。
 全部、自分でわかっている。
 全部、自分で解決するしかない。
 なのに私、どうすればいいのかわからない。
 「志摩子」
 聖さまの声がした。
 「はい?」
 「そんな風にしたら、タイおかしくなっちゃうよ」
 「あ……」
 志摩子は知らずに、自分のタイを弄んでいたらしい。
 指にからみついたタイが、何かいやらしい。
 「そ、そうですね……」
 志摩子は自分でタイをほどいて、結びなおした。
 (行列を作る生徒たち)
 違う、そんなことを考えては駄目!
 (見も知らぬ生徒のタイをなおしてあげる聖さま)
 違う、違う!
 (私のタイはなおしては……)
 違う!
 ぽたぽたっ、とタイに雫が落ちて、それがシミを作る。
 「かっ、は……」
 息が苦しくなる。
 「志摩子、まさか」
 聖さまの顔が揺れて見える。
 (私たちはきっとつながっている)
 お願いです、言わないで!
 「まさか、タイを……」
 椅子をはねのけて、志摩子は扉から飛び出した。

  7

 気がつくと、志摩子は銀杏並木にいた。
 しゃがんで、ギンナンを拾っていた。袋もないのに。
 すべてが橙色に染めあげられている。
 夕暮れが、せまっていた。
 鞄を薔薇の館に取りに行かなければならない。
 その気にはなれないまま、志摩子はそう思った。
 ギンナンを拾っても、少しも気分はましにならない。
 こうして、一つずつ幸せを失っていくのかと思うと、志摩子は涙が出そうだった。
 左手に集めたギンナンが、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。けれど。
 涙は落とさない。それは意地だった。
 簡単なことだ、と志摩子も思う。
 タイをなおして下さいませんか、お姉さま。
 そう言うだけのこと。
 聖さまはきっと、機嫌よくタイをなおして下さるだろう。
 簡単なこと。
 その簡単なことが、志摩子には出来ない。
 なぜなら、それでは聖さまを愛していないことになる……。
 「志摩子」
 声がした。
 志摩子は顔をあげることが出来なかった。
 その声は、聖さまの声だったから。
 「志摩子」
 志摩子は応えず、首をふった。
 「じゃあ、ここで許してもらおうかな」
 聖さまは、少し離れたところに並ぶように、志摩子と同じ方向を向いてしゃがんだ。
 「タイをなおして欲しかったんだね」
 聖さまがそう言ったけれど、その言葉はさっきとは違って。
 それはもう、とても遠いことのように思えた。
 「ごめんね、近づけなくて」
 と、聖さまは言った。
 「私、駄目なんだ。近づいたらきっと、あなたを焼き尽くしてしまう」
 志摩子、ではなく、あなた、とお姉さまは私を呼んだ。
 あなたを焼き尽くす、という言葉が私の胸を焦がした。だから知ってしまう。私はこのひとが好きなのだ。
 あなたになら焼き尽くされてもいい、と志摩子は思う。
 けれど、それではあなたを愛していないことになる。
 お姉さまは私を焼き尽くしたくないのだ。
 それは、私を……。
 私を……。
 志摩子は知っていたはずなのに、言葉が出てこなかった。
 それに、言葉が無くてもそんなことは知っている。でも。
 心が通じる者たちの、片方が、違うことを望んでしまったら?
 「私も拾おうかな」
 聖さまが、ギンナンを拾いだす。
 拾っても無駄になると、そう思った志摩子が少し、聖さまの方を見ると。
 「私にも左手があるからね」
 と、聖さまは言った。
 「なんて言って止めておけば、格好いいんだろうけどね」
 ほら、と言って、聖さまは志摩子のギンナン袋を見せた。
 志摩子はようやく笑うことができた。
 聖さまもほほえんだ。
 「ちょっとだけ、近づいていい?」
 志摩子はうなづいた。
 聖さまはしゃがんだままにじり寄った。
 肩は並んでいるけれど、触れ合わないほどの距離。
 「こっちの方が、多いんだよね」
 ギンナンの実が、と言う聖さまの頬が、赤かった。
 夕暮れに染まったせいではないと、志摩子は信じたかった。
 そして、それだけでもう、充分だと思った。
 聖さまが袋をさしだすので、志摩子は左手のギンナンを袋に落とした。
 手首のロザリオが揺れて垂れた。
 「桜並木も一応さがしたんだけどね」
 と、聖さまは言った。志摩子をさがした、ということだろう。
 そこは志摩子と聖さまが初めて出逢った場所。
 そしてそこは二人が姉妹の契りをかわした場所。
 そこは、聖さまの場所。
 「でも、ここだろうと思ってた」
 ここは銀杏並木。
 ここは……私の場所。
 二人で肩を寄せてギンナンの実を拾う。
 桜並木と銀杏並木のように、近いけれど離れたままで。
 「春と秋ね」
 そう、春と秋のように、私たちは必ず離れているけれど。きっと。
 春と秋のように似ている。
 春と秋のようにわかりあっている。
 それが幸せでなくて、何だろう。
 「けっこう楽しいね、これ」
 聖さまはこうやって私を癒してくれる。
 それが幸せでなくて、何だろう。
 聖さまが眉をあげて、言った。
 「もう袋、いっぱいだよ」
 「ええ」
 聖さまがほほえむ。
 「帰ろっか」
 「ええ」
 「あ、鞄、持ってきてないんだ。これしか持ってこなかった」
 ギンナン袋、と聖さまは苦笑した。
 志摩子もほほえんだ。
 「薔薇の館に戻らなくちゃ」
 「戻りましょう」
 「大丈夫?」
 「はい」
 「じゃ、行こっか」
 二人はそろって立ちあがった。
 しゃがんでいたせいで、タイが歪んでいる。
 その時、私は知ったのだ。自分にできることが何なのかを。


 志摩子は自分のタイをなおし、そして言う。
 「お姉さま、タイがまがっています」
 聖さまのタイに手をのばす。
 求めることは出来なくても、与えることはきっと許される。
 志摩子は聖さまのタイをなおす。
 わかりますか?
 愛しています。
 愛しています。
 手がふるえて、タイが上手く結べない。
 その手に雫が落ちた。
 その志摩子の手を、聖さまが両手で包んだ。
 そしてふるえる声で。


 「愛している」
 そう、聖さまは言ってくれたのだ。


 夕暮れの中。
 銀杏の葉の舞い落ちる、赤く染まった銀杏並木の下で。


  完 (2003.9.10up)


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une Sable nouvelle a L'eau de rose タイをなおして
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