une Sable nouvelle a L'eau de rose 黄薔薇御稽古(下)

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  黄薔薇御稽古(下)


 体当たりからの引き際の由乃の打ち込みに、とうとう令の竹刀が叩き落とされてしまった。道場の床を転がって竹刀が止まる。
 「ま、まいった!」
 尻餅までついてしまった令は、声をかけて素直に負けを認めた。
 面をとると、由乃が艶やかにほほえむ。
 「まいった?」
 「本当にまいったよ、こんなに強くなるなんて」
 由乃にはもう何をやってもかなわない、と面の奥で言う令の声が少しふるえた。
 「あら、令ちゃんたら、あいかわらず泣き虫ね」
 面をのぞき込むようにして由乃が言った。あいかわらず容赦ない。
 「でも、約束は約束よ」
 「約束?」
 「そう、すべての点で私は令ちゃんを上まわったわ。だから」
 今日から令ちゃんが私の妹になるのよ。
 そう言って由乃は、令を道場の板敷きへと押し倒した。


 「あっ……」
 思わず声を発し、目がさめてしまう。
 令の全身は汗ばみ、誰も見てはいない寝室の薄明かりの中で、令は寝間着の上から両腕で胸をかき抱いた。
 (なんていう、夢を……)
 その夜。
 小説を読むのを止め、妄想を打ち払って眠りについたものの、なかなか令は寝つけなかった。どうやらようやく眠っていたようだけど、そこにこの夢だ。
 (くやしい)
 夢の中とはいえ由乃に剣道でおくれをとったこともくやしかったが、それ以上にくやしかったのは。
 夢からさめてもまだこの胸に熱を持つ、由乃の妹になることを告げられた喜び。
 身体にひろがる甘やかさに思わず身震いしてしまう。
 令はそっと頬に手をやった。
 よかった。
 涙は流していない。それは救いだった。

  1

 「令ちゃんおはよう」
 「おはよう」
 玄関のくぐり戸を振り向いて閉める格好で、令はその日はじめての由乃の顔を見るのを避けてしまった。あんな夢を見てしまった後だもの、やっぱり由乃と顔を合わせづらい。
 そのまま並んで前を向いて、朝の通学路を歩く。
 しかもあの夢の後、令は再び眠りにつけたものの、たて続けに2回も似たような夢でたたき起こされてしまっていた。最後の夢ではとうとう「まいったかぁ、まいったかぁ」までも由乃に決められてしまって。続きなんか見たくなかったのに。本当に。ほんとに。ほんとだってば、もう。
 「どうしたの令ちゃんその顔。熱でもあるの?」
 結局3回、汗だくになったパジャマを着替えるはめになった。洗濯しなきゃもう替えがない。そしてスポーツドリンクを飲みにもいった。ほら、水分を取らないと、身体に悪いし。それから歯磨きもした。ほら、糖分含んでるから、歯に悪いし。
 由乃の顔をまともに見れない、といっても、令とてそう何度もかわしていられない。由乃は勘がいいし、すぐ不機嫌になってしまう。いつか限界が来る。その時どうしたら……。
 「……」
 うわ、もう由乃、ちょっとふくれてる? 限界来るの早っ。
 どうしよう。何かしないと。言わないと。
 何か言わないと。令は口を開いた。
 「っふわあああ……っ」
 ……盛大なあくびになってしまった。何か言うつもりだったのに。
 「ぷっ、くすくす……」
 あ、よかった、由乃笑ってる。
 「令ちゃんたら、口に手をあててよ。ハムスターみたい」
 ハムスターって、あのハムスター? ……よくわからないけど、らじゃ。もういいです、由乃の機嫌がなおれば。なります令さん、ハムスター。
 「うん、令さん、ハムスター」
 「あはは、何言ってるの。令ちゃんおっかしい」
 笑ってる。そうか、とひらめく令。このまま学校まで由乃を笑わせ続けることができたら、目をあわせずにすむ!……無理だよそんなの。
 「今日もあくびしてるってことは、読んでたのね、昨日も」
 あ、なるほど、それで由乃の機嫌がなおったのね。あくびがハムスターだからじゃないんだ、と、いまだまったく由乃の操縦法がわかってない令なのだけど。
 「どうたった?」
 なんて由乃が、令の顔をのぞきこむようにかがんで言ってきたからには、もう無理です。今までしのいで来たけど、目をあわせるしかない。令は由乃の顔を見た。
 ああ由乃ったら、今日も可愛い。じゃなくて、数えるのよ。
 1、2、3。よし見たもう充分にいいでしょ由乃?
 「あ、ええと、面白かった」
 と再び目をそらして言う令。
 「ふーん……」
 やばい、やばいです。由乃の笑顔が消えましたマリア様。令はちゃんと見てましたのに。
 「どこらへん?」
 また令の顔をのぞきこむようにする由乃。
 見ます、見ますよ由乃の顔を。数をかぞえて。
 1。
 ああもうだめ。1しかもたない。見てらんない。由乃ったら、「どこらへん?」なんて、「まいったか」に似たこと言うんだもの。似てないか。
 令は記憶をまさぐるふりをして左上に目線をそらしたまま言った。
 「あ、ええとね、『天魔』の回でね」
 「ふんふん」
 ええっと、『天魔』の回で、ねえ……?
 「『天魔』の回でね、そう! その敵がね」
 「ふんふん」
 「すごく飛ぶじゃない。ジャンプで、相手を倒す時に、頭上を高く跳んで、通り過ぎざまに裏面を打つっていう」
 ああ、そうそう、調子出てきた。
 「ふんふん」
 「あれはさすがにちょっと無理があるかなって。そんなに跳べないでしょ人間は。ぴょーんって」
 昨夜それなりに無理にぴょーんと跳んだけど私。でもいい、調子でてきた。
 「なるほどね……。いいけどさ、令ちゃん、それ、面白くなかったところじゃないの?」
 ……調子悪いです、マリア様。
 「私、どこが面白かったのか訊いたはずだけど?」
 「あ、そう、そうね、えっと」
 「もういい」
 うわ、一番嫌いな言葉。
 「え?」
 「もういい。令ちゃん今日おかしい。なんかこっち見てくれないし」
 「……」
 由乃を見るかわりにうつむいてしまった令。
 「……ほら、言ってもまだ見てくれない」
 はっとして、令は顔をあげた。けれど、もうそこには由乃の顔はなくて。かわりに走り去ろうとする由乃の後ろ姿が目に入った。
 「今日は別べつで学校行く!」
 「由乃!」
 「令ちゃんつまんない! 追いかけて来たら怒るからね!」
 振り向きもしないで叫ぶ由乃。追いかけようとした令はその言葉でストップせざるを得ない。
 「由乃!」
 曲がり角の向こうに走る由乃の後ろ姿が吸い込まれる。
 ……行ってしまった。
 道に一人取り残された令。
 「……もう怒ってるじゃない」
 とでもつぶやくしかない。
 朝日が目に痛いことに、その時はじめて令は気づいた。

  2

 「令、あなた、また喧嘩したでしょう」
 ふん、なんてため息みたいな音を鼻にして、うんざりしたように祥子が言った。
 「わかる?」
 「わかるわよ。あなた、気づいていないかもしれないけど、お弁当も食べずにため息ばかりついていてよ」
 そう言うと祥子は、私は食べるわ、とばかりに、最近食べられるようになったというアスパラ巻きを箸でつまんで食べた。そんな仕草まで居住まい正しく気品がある紅薔薇さま。
 お昼休みの薔薇の館には、令のほかにはその祥子と祐巳ちゃんしかいない。志摩子と乃梨子ちゃんの白薔薇姉妹はいつもの場所でお弁当を食べているのだろう。そしてあの子は当然……。
 「令さま喧嘩したって、誰とですか? 由乃さん?」
 祐巳ちゃんが口にした「由乃」の言葉に令の身体がびくんと震えた。
 「祐巳」
 「あ」
 「……まあいいわ、言葉を避けていたって無意味だし」
 そうか、だから祥子さまは由乃さんの名前を省略したんだ。令さまを気づかって。お姉さまってやっぱりやさしい。
 「か」
 「へ?」
 令は茫然と立て札でも読むように祐巳ちゃんの顔を読んだ。
 「それで、何があったの? 令」
 「……」
 「黙っていては、何もわからなくてよ」
 何も言いたくない。それに、話すとしてもいったい何から話せばいいのか。
 「令、あなた、今がどういう時期か知っているわよね」
 「どういう時期……?」
 「近いのよ、学園祭」
 あ、そうか。
 「これくらいのこと、普段なら私もかまいはしないわ。だけど、学園祭をとり仕切らなければいけないあなたたちが、その前に喧嘩だなんて」
 その通りだった。私は黄薔薇さまなのに、また自分のことばかり考えていたんだ。これくらいのこと、ときつく言われても、腹も立てられない令。
 「迷惑をかける気?」
 「……ごめん」
 「違うわよ」
 「え?」
 「私たちはいいのよ、迷惑なんて。リリアンの生徒たちによ」
 祥子の言葉が身にしみる。そう、生徒たちにこそ迷惑をかけてはいけないんだ。
 「そうだね……」
 「何があったの?」
 だけど、本当に、どこから話せばいいのかわからないよ。
 令はついまたため息をもらしてしまう。
 「……ため息ばかりつかないでよ。ごはんが美味しくなくなるわ」
 祥子の言葉に、令ちゃんつまんない、という由乃の言葉のこだまを聞いた気がした。
 「お姉さま!」
 「いいの、祐巳ちゃん」
 祥子の言う通りなんだから。
 「ごめん、祥子。私、出て行くね……」
 ふらりと力なく立ち上がると、令は祥子たちに背中をむけて扉を出た。
 「待ちなさい、令!」
 祥子の言葉の凛とした気をうけて、思わず令の背筋が伸びた。振り向くと、
 「ごめんなさい、私も言いすぎたわ」
 令はびっくりしていた。祥子がこんなことで謝るなんて。
 「ねえ、令。私には、あなたの話を聞く権利なんてないのかしら?」
 それはとても祥子らしい言い方だった。そして、ああ、これが、と令は感じる。
 祐巳ちゃんをとろけさせる、マリア様のような祥子のほほえみ。
 「そんなことない! 私!」
 「いいの。ね、もどっていらっしゃい、令」
 その言葉に魔法をかけられたように令は椅子に戻った。
 「祥子、私……」
 「いっしょにお弁当を食べましょう、令」
 テーブルには湯気の立つ熱いお茶。見ると、いつのまにかそれを入れてくれた祐巳ちゃんがほほえんでいた。
 由乃だけじゃなかった。
 祥子も、祐巳ちゃんも、成長したんだ。
 令の胸が熱くなった。その熱が言葉に変わるのは、もうすぐ。

  3

 「なんだ、そんなことだったの」
 と、大笑いする由乃。うわあ、よかった、と、令はそれだけで救われた気分になる。
 部活が終わった後。
 令は由乃を武道館裏に呼び出して、すべてを話した。
 そうするのがいいだろうと、薔薇の館で祥子たちにアドバイスされたのだ。
 ちなみに薔薇の館でも、何から話していいかわからない令は、ことの発端からすべて話した。
 話を聞きおわった祥子は、な、なるほどね……なんてめずらしくどもっていた。こころなしか顔も赤かった。令は問題の小説の中身から自分のあの夢の内容まで、あらいざらい聞かせたのだ。
 ちなみにことの発端である、祐巳ちゃんの読書の一件から話し出した時、
 「あ、令さま、それはっ」
 「何? 祐巳、あなた知ってることがあるの?」
 「い、いえ、お姉さま。そのっ」
 「いいわ令、祐巳に遠慮せずおっしゃい」
 なんてやりとりの結果、結局それも省略せずに話したので、話の初めから祐巳ちゃんはいろんな意味で赤くなりっぱなしだった。
 他愛もない、の祥子の一言で、どうするべきか決った。由乃にもすべて話せばいいだろう、ということになった。ただし。
 一刻も早く由乃と仲直りしたい令が、部活前に由乃を呼び出そうと駆け出したところ、その意図を読んだ祥子が再び静止した。それはよくなくてよ、部活の後になさい、と。
 部活前に呼び出せば、令とそろって部活に遅刻することになる由乃が怒るだろう、というのだ。
 どうして?、と祐巳ちゃんばりに素直になり果てていた令が尋ねると、みなまで言わせないで、頭痛が、という風情で祥子が片手を額にあてた。そこで令もなんとなく納得して、部活後に会うことにしたわけである。
 今日は戻らなくていいわよ、と祥子たちに見送られて。
 「令ちゃんてば、そんな夢見たのね。令ちゃんってやっぱり私よりエッチ」
 由乃はニヤニヤしながら令をいじめる。ああもう、エッチでも、ハムスターでも、好きにして。
 「じゃあ、許してくれる?」
 「うーんと、ダメ」
 「ど、どうして」
 ガーン、といった感じに仰け反る令。でもそう言う由乃がほほえんでいるので、ショックが軽い。
 「相手のことを知るために、相手の好きな本を読む、か。本当に素敵ね」
 由乃はそれに答えずに言った。
 「令ちゃん、もっと私のことが知りたいの?」
 言われて令は、ドキドキしながらコクンとうなずいた。
 「令ちゃんが剣客小説を読みたいって聞いて、私、うれしかった。私が剣道を始めたことに応えてくれたんだって」
 「じゃあ」
 「ダメ」
 許してくれる?、と言う前に読まれてダメを出されてしまった。私は由乃のことが読めないのに、どうして由乃はこんなに私のことがわかるんだろう。
 「相手のことを知るために、相手の好きな本を読む」
 由乃はくりかえして言った。
 「令ちゃんそれ、はじめてだって言ったよね。……忘れちゃったの?」
 あれ?、はじめてじゃなかったんだろうか。まさか、本をすすめあって喧嘩した時のことを言っているのか。
 「喧嘩した時のこと?」
 「喧嘩? ……ああ、それもあったわね。でも、そうすると、やっぱり令ちゃん、忘れちゃったんだ」
 なんだっけ、なんだっけ?
 「だから、やっぱり許してあげない」
 身体をかがめて令をのぞきこむ得意の姿勢をして、由乃はほほえんだ。
 「そんな」
 「いいわ、じゃあ、一つだけお願いをかなえてくれたら許してあげる」
 令の顔がぱあっと明るくなる。
 「何? 令さん何でもする!」
 「それでこそ令ちゃん。じゃあ、これから私に稽古をつけて?」
 「稽古?」
 「そう、剣道の稽古。そこで」
 と、由乃が指さしたのは武道館。
 「いやっ、そ、それは……」
 由乃には許してもらいたい。けれど、かりにも黄薔薇さまにして剣道部主将が、自分の妹である黄薔薇のつぼみとの個人稽古なんて。そんなの誰かに見られたら、しめしがつかない。カメラちゃんだってどこから見てるか知れないし。と、きょろきょろする令。
 「だめなの? 何でもしてくれるんじゃないの?」
 「こ、ここではちょっと」
 「……仕方ない、ゆずってあげるか」
 曇りかけた令の顔がまた明るくなったのだが。
 「じゃあ稽古はいいのね?」
 あれ、なんでそうなるの。
 「じゃあ、令ちゃんちの道場で」
 「う」
 「断らないわよね。私、ゆずったんだから」
 由乃はこわいほほえみを浮かべた。

  4

 「わあ、この令ちゃんの中学生の時の袴、ぴったり」
 はじめて袴を身につけたようにくるくる回ってはしゃぐ由乃。その光景が今朝の夢とダブって見えて、まさに夢みたいな気分になって令はいよいよ当惑する。
 「コ、コホン!」
 「あ、失礼しました、主将。礼儀第一ですね」
 なんてふわりと板張りに正座し威儀を正す由乃。目が笑ってる、目が。
 支倉家の道場は、よりによって今日という日に限って年少の部も社会人の部も休みだった。
 帰るなり、由乃に稽古をつけるから道場を使わせて、と、お父さんに言ったら、おお使え使え、とまたとない機嫌のよさで許されてしまった。最近の行いの良さまで裏目に出てる。池波先生、お恨み申し上げます。
 おまけにお父さん、どれ、俺もみてやろうか、なんて言い出したから、それだけはと勘弁してもらう。どうしてだ、と聞かれても事情を説明するわけにもいかず困ったけれど、小鰭の酢じめゆずかけプラス栗ご飯(絶妙の一品)の約束でわりと簡単に買収した。お父さん、私が言うのもなんですが、賄賂を受けるのは剣の道としてどうかと。いえ、不肖の娘をお許し下さい。だって、万が一でも「まいったかぁ、まいったかぁ」されるかもしれないからなんて、口が裂けても言えない。
 「どうしたの令ちゃん。まいったかぁ、されるかもなんて思ってる?」
 「どっ、どうして」
 「顔に書いてある」
 私はどんな顔をしていたのだろう。
 「不謹慎ですよ、主将。ただひたすらに稽古をつけていただきたいだけです」
 再び背筋を正す由乃。その言葉を信じるよ。こうなったら、もう。
 由乃に防具を貸してつけさせる。一方の令は小手と胴はつけたが面はつけない。
 「面はつけないの?」
 「まず約束稽古だし、面はこれで受ける」
 左手一本で柄先を持って、令は竹刀をかざして見せた。その顔にはもう迷いはない。剣道の顔になっていた。この道に由乃かどうかは関係ない、といった顔だ。それが伝わってか、由乃の顔もひきしまる。
 正面に礼し、互いに礼をして、稽古が始った。
 小手打ち、面打ち、胴打ちの反復練習をこなした後で、由乃に小手、面、胴の打ち込みをさせる。胴は抜き胴と呼ばれる、相手の脇を通りすぎざまに打つ胴だ。
 「こてー、めーん、どーう!」
 小手と胴はそのまま受けて、面だけを竹刀をかざして受ける令。通り過ぎる由乃に対して振り向く様にも無駄が無い。時おり、左手をしぼって、とか、踏み込みをしっかり、などと声をかける。
 由乃はひと月ほど前からこの練習段階に入っているものの、まだまだたどたどしい。
 「型を大事に。待って、私が打ってみせる。小手、面の後、竹刀を上段にかまえて……そう、ふりかぶって胴をあけるの。小手、面、胴、そう。いい?」
 いくよ、と言って令が音声(おんじょう)をあげた。
 「あ、はい!」
 道場の壁を打つような、よく腹から出された気合の後、小手、面、胴、と呼ばわりながら令の打ち込みが流れるように決まる。振り向いた由乃は感心しているようだった。防具を打つ音は、ぼん、ぼん、と由乃とはくらべものにならないほど大きいのに、あまり痛くもないのを不思議がっている。
 「型を大事に。さあ、打ってみて」
 令の手本の甲斐もあって、由乃の動きが少し上がる。
 さらに小手返し、面引き面などの打ち込み稽古をひとしきり続けた後。
 「よし、止め」
 と令の声がかかった。
 「もう、終わり?」
 少し息がきれているようだが、面の奥で顔を汗まみれにしながらも、由乃は瞳を輝かせている。
 よい顔だな。そう思う令が、由乃の息ぎれを心配する令にまさった。
 「乱取り、してみる?」
 由乃の顔がぱあっと輝いた。
 「ありがとうございます!」
 「一回だけよ。少し休んで呼吸を整えて」
 「はい!」
 正座した由乃は、主将に相手をしてもらう光栄に喜ぶ後輩そのものだった。令が面をつけるのを、熱のこもったまなざして見つめている。
 乱取りとは、約束なしの模擬試合の形をとる稽古だ。由乃はこれをする段階にはまだ進んでおらず、普段の部活では令が他の上級者としあうのを見学するばかりだった。令がそれを許したことはまさに特権といえた。
 正面に礼をし、互いに礼をして構えるや。
 「あはい!」
 先ほどを上まわる音声が令の腹から発せられ、道場の壁もろとも由乃の身体をびりびりと打ちつけた。驚きはしたものの、おびえなかったことを由乃の瞳に見て、令は評価した。
 令は動かない。由乃は動けない。
 「由乃、声を出して」
 「はい!」
 「もっとお腹から!」
 「はい!」
 はりあげた黄色がかったせいいっぱいの声に、ようやく突き動かされて由乃の身体が前に出て小手を狙う。令は左に足をさばいてそれをかわし、逆に由乃の小手を、ぼん、と打った。型の手本のような小手返しが決まった。
 続いて逆に令が竹刀を軽くはじいて小手を攻める。由乃はかわせず打ち込まれた。
 その後も令は攻めを少なくして、由乃にいろいろと攻めさせては、足のさばきを使って避けては返し技を受けることをくり返させた。由乃には令がまるで動かないように見えたことだろう。
 令があたかも約束稽古と見紛うような基本の動きしか見せないその乱取りは、もちろん由乃をあなどってのことではない。逆に、いかに基本が大切かを身をもって示し、そのことで初級者の由乃を大切にするものだった。
 時間にしては3分もたっていなかっただろう、注意しても由乃の打ち込みが型からはずれることが多くなる。
 (そろそろだな)
 これが最後と令が抜き面をしかけた。ぼん、という音ともに綺麗に決まる。
 振り向いて「これまで」と声をかけようとした時。
 由乃が板張りにへたりこんだ。

  5

 「由乃!」
 その日の最も速い動きをみせて、令が由乃に駆け寄るが、由乃の体はさらに後ろに倒れる。
 「由乃!」
 自然、令が由乃に横からかぶさるようになる。
 「由乃! 由乃!」
 「あ、大丈夫。ちょっと驚いて、座っちゃった」
 息があがっているものの、からっとした調子で由乃が言った。
 「そんな顔しないで。本当に大丈夫だから。……ごめんね令ちゃん」
 私の顔は後悔でぐしゃぐしゃになっているらしい。
 「ほ、本当?」
 「うん、大丈夫よ、ほら」
 令を押しのけて由乃はすんなりと上体を起こした。それでも令はまだ、一年前に手術を受けた由乃の体を心配してしまう。
 「胸は? 痛くない?」
 「胸? あ、心臓? ぜんぜん平気」
 「本当? 本当?」
 「もう、疑り深いな、令ちゃん。大丈夫だったら、ほら」
 由乃は令を板張りに押し倒してしまった。腕に体重をかけてぎゅっと押え込む。
 「ほら、これが病人の力に思える?」
 押し倒された驚きが心配をふりはらったのか、令は目を見開いて首を振った。由乃はほほえんだ。
 「どうだ、まいったか」
 「はあ……まいりました」
 呆然とする令はそれが夢の再現であることにすら気づかない。本当に、まいったんだから。
 「うふふ」
 令に馬乗りになったまま、由乃は面をはずした。頭に巻いた手拭いをとり、上げてあった二本のおさげ髪を頭をふって垂らす。
 「はあ、涼しい。……あ、礼してなかった。ごめんなさい、主将」
 礼のつもりか、由乃はこつんと令の面に額をあてた。馬乗りになっておいて礼もない。
 「ありがとうございました」
 「本当に、大丈夫なのね?」
 「もう、しつこい」
 由乃はこつんと額で面を打つ。由乃の汗が、令の頬に降り落ちる。
 「ありがとう、令ちゃん。本気で稽古つけてくれて。嬉しかった」
 息のかかるような近さで、由乃がほほえんで言った。
 「令ちゃん、すごいね」
 「え?」
 「成長したんだね」
 成長? 何が? 令にはわからない。由乃が無事なことを知って安堵でいっぱいになるばかりだった。
 「これはお礼」
 そう言って、由乃が。
 令の口唇の前の面にキスをした。
 途方もない幸福の連続に、ときめきも忘れて令は驚く。
 「約束だから、許してあげる」
 「許す?」
 「やだ、令ちゃん。私たち喧嘩してたのよ。令ちゃんが本のこと忘れちゃったから、稽古つけてくれたら許してあげるって」
 「ああ……」
 「ふふ、令ちゃんの忘れん坊」
 面にほおずりするようにして由乃が言った。
 「でも、令ちゃん本当に忘れちゃったの? まあ、ずっと昔だものね」
 そうだ、それはなんのことだったんだろう。令はまるで本当になにもかもを忘れたもののように思った。
 「相手を知るために、相手の好きな本を読むって」
 私たち、ずっと昔にしたんじゃない。そう由乃は言った。
 ああ、大好きな由乃はなんてやさしいそうにほほえむんだろう。
 「令ちゃんは少女小説を、私は剣客小説を読み始めた。それはなぜ?」
 なぜ? わからない。好きだったからだ。
 好きだったから。
 何を?
 誰を?
 そして、令の身体が先に答えを知ったかのようにふるえた。
 由乃の汗が令の頬に落ちる。


 そう、それはずっと昔、本というものを読み始めたころの二人。
 「令ちゃんは剣道部で、私は病床の窓辺の少女。ずっとそうだった。だから」
 令は少女小説を、由乃は剣客小説を。


 お互いを知りたくて、相手のことのような本を。


 もう令には、頬をつたうのが汗なのか涙なのかさえわからない。



  完 (2003.08.17up)


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