une Sable nouvelle a L'eau de rose 黄薔薇御稽古(上)

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  黄薔薇御稽古(上)


 このごろは十日も大治郎の顔を見ないでいると、夜、臥床へ入ってからも、ねむれなくなってしまう。熱い吐息を洩らしつつ、輾転と寝返りを打ち、空が白みはじめるころになり、ようやくまどろむのだが、すると、こういうときには、かならず、はずかしい夢を見てしまうのだ。


 (ああ、そういうことってあるよね)


 目ざめているときは、おもっても見たことがない自分を、三冬は夢の中に見出すのである。
 たとえば……。


 (ふむふむ、たとえば?)


 大治郎と剣術の稽古をしている夢を見る。
 大治郎の木刀を叩き落した三冬が勝ち、道場の板敷きへ仰向けに倒れた大治郎を、
 「これでもか、これでもか……」
 と叫びつつ、三冬が押えこむ。これでは、まるで、柔術の稽古ではないか……。
 それはまだよい。大治郎には到底、勝つことができぬ三冬の願望が夢にあらわれたのだ、ともいえよう。


 (い、いえよう)


 しかし、つぎに、三冬は大治郎へのしかかるようにして、
 「これでもか、これでもか……」
 よばわりつつ、大治郎の稽古着の胸もとを乱暴に引きめくり、鞣革を張りつめたような男の若わかしい胸肌へ、無我夢中で顔を押しつけ、くちびるで、厚くもりあがった大治郎の筋肉をまさぐりはじめるのだ。


 (な、なにこれえ〜〜〜?!)
 リリアン女学園高等部三年、黄薔薇さまこと支倉令は、自分の部屋のベッドの上で寝ころがったまま、ぴょーんと跳びあがっていた。なかなかに器用な。
 ベッドで寝ころがる、といっても、令は眠っていたわけではなくて。お気に入りのラスカル人形(大)を枕がわりにして、本を読んでいたのである。だから、さっきの夢の話は令の夢の話ではないのだ。念のため。そう、令の名誉のため。
 令はその本に指をさして閉じ、表紙を見た。印刷された文字を確かめる。
 『剣客商売 天魔』、池波正太郎……新潮文庫。
 令はさらにカバーをとりはずし、本体の表紙も確認する。
 新潮文庫、『剣客商売 天魔』、池波正太郎著……新潮社。
 間違いない、この本は由乃から借りた剣客ものの時代小説だ。まさか中身だけ恥ずかしい小説に入れ換えたんじゃ、などと疑った令は自分を恥じて、心の中で由乃にあやまった。疑ってごめんね、由乃。
 いやしかし、そんな問題か? がばっと体を起こして、令は考えを転じた。これが本当に令すら知っている時代劇の大家、池波正太郎の小説だとすると、そっちの方がびっくりだ。
 というか由乃ったら、こんな部分があることを知ってて私に貸してきたんじゃないだろうか。陰謀好きの由乃のこと、ありうる、なんて令は思ってしまう。
 けれど、そもそも令が読み慣れない剣客小説なんかを由乃から借りて読むことなった、その、ことの発端は祐巳ちゃんにあったのだ。

  1

 「お、祐巳ちゃん、読書の秋?」
 「あ、黄薔薇さま、ごきげんよう」
 学園祭をひかえていることもあってか、剣道部が早めに切りあがった放課後。令が薔薇の館に行くと、二階の楕円のテーブルに大きな本をひろげて、一人で辞書をひきひき読んでいる祐巳ちゃんがいた。
 「令さん、でいいよ。二人っきりの時は。私も自分のこと令さんって言うし」
 などと変なつけたしをする令。
 「いやいや、けじめはきちんとしなくては」
 などとすまして祐巳ちゃんが言うものだから、令は思わずちょっと笑ってしまう。祐巳ちゃん、祥子に似てきたっていうか、それじゃあ祥子のモノマネだよ。
 「何ですか?」
 あ、笑ったからちょっとふくれた? フォローしなくちゃ。
 「いや、祥子に似てきたなって思ってね、祐巳ちゃん。あ、紅薔薇のつぼみ」
 そう言われて嬉しそうに、えへへ、なんて笑顔になるあたり、もうまるっきりただの祐巳ちゃんだった。 
 思ったことと違うことを言ってあげたけど、まあ思ってもいないことじゃないわけだからいいよね、なんてこまごまと思う令である。
 由乃が知ったら、令ちゃんの小心者、とか言われるところだが、令本人は身にしみついた繊細さだと感じているのだから、いろいろあってもこればかりはなかなかなおりそうもない。
 「黄薔薇さま一人? 由乃さんは?」
 「ああ、後で来るよ。今、掃除してる」
 由乃が剣道部に入ってから三ヶ月ほどにはなるけれど、新参者であることに変わりはない。居残って武道館を掃除しているところだ。
 「待たなくていいんですか?」
 「新入部員だからね、そう扱ってあげないと……」
 「あ、けじめ、ですね?」
 「そうそう。そういう祐巳ちゃんこそ、祥子待ち?」
 「えへへ」
 祐巳ちゃんのほほえみにほほえみで応えながら、令は隣の席を引いて座る。
 「あ、お茶入れましょうか」
 「ああいやいいよ、後で自分でいれるから。さっきスポーツドリンクのみまくってきたし」
 なんて言いながら、本当は由乃を待って一緒にお茶しようと思っている令である。
 「何読んでるの? おお、ブンガク」
 令がのぞきこんでみると、祐巳ちゃんの開いている分厚いハードカバーは文学全集だった。
 「祐巳ちゃんこんなの読むんだ、すごいね」
 「あ、これはお姉さまから借りたんです。面白いわよ、って」
 「へえ、どう?」
 「難しい」
 またもえへへと笑顔で言う正直者の祐巳ちゃん。
 「あっ、でもっ、難しいけどっ、面白くもあるんですよ。それだけじゃなくて、あ……」
 「それだけじゃなくて?」
 口が滑ったって感じで、祐巳ちゃんは耳まで赤くしながら。
 「あの、お姉さまが好きな本だから……」
 「ああ……」
 「読んだらお姉さまのことがわかるみたいで」
 「なるほど」
 こっちまで胸が甘酸っぱくなってしまう令。うーん、気持ちいい。少女小説愛好家としてはたまりませんって感じ。ロマンス生きてるね。
 「やっぱりいいね、祐巳ちゃん」
 「へ?」
 いや、その、へ?、とかはないんだけど。普通の少女小説には。
 しかしそうか、と令の甘くときめいた胸に新鮮な考えがうかびあがってくる。相手の好きな本で相手を知る、か。いいかも。
 由乃がロザリオを返してきた黄薔薇革命、剣道部に入部してきた黄薔薇注意報事件と、心臓を手術した由乃は強くなっただけでなく、いろんなことに挑戦するようになった。
 そのめまぐるしいばかりの変化に振り回される形になって、とまどったこともあった令だったが、今では由乃が変っていくなどと思っていない。
 由乃は変ってなどいない、これは成長なんだ。今では令はそう受け止めて、由乃を受け入れていた。この心境を得たことは、弱い妹の由乃を守ろうとばかりして、逆にそれを支えと甘えてきた姉の令にとっての成長でもあったと、今では思ってさえいる。
 だけどそれで充分だろうか、とも思ってしまう令である。
 私の成長は、由乃の成長に見合っているだろうか?
 由乃が挑戦しているように、私もまた挑戦すべきではないのか?
 そうは思うものの。
 挑戦。
 けれど何に? それがわからなかった令だった。
 ところが今まさに、とうとうこれかな、というものに令は思いいたったような気がした。それは少女小説のようなときめきから出たが、それとは別の小説に向かう道。
 相手を知るために、相手の好きな本を読む。
 「あのっ」
 剣道少女のわりにラブロマンスものの少女小説を愛読する令に対して、可憐な少女(だった)のくせして血風とびかう剣客時代小説を愛読する由乃。二人の趣味はまるっきりあべこべだった。
 「あのっ」
 つきあいの長い二人であるから、当然、一度はお互い面白いと思う本を相手にすすめたことがある。すすめたというか、実際には押しつけたみたいになって、例のごとく大喧嘩。愛読書交換なんて当然その一度っきり。いつのことだったかも思い出したくない。ていうか今度は大丈夫? 大丈夫よね、本をすすめるんじゃなくて、求めるんだから。でも……
 「あのっ!」
 そこで令はようやく祐巳ちゃんに呼びかけられていたことに気づいた。
 「はいっ、何?」
 「大丈夫ですか、黄薔薇さま」
 ずいぶん長いこと、といっても10分くらいだろうが、令は黙っていたらしい。会話の途中で顔を輝かせて急に黙るや、陰のさした顔をしたり、真剣な顔をしたり、と思ったらまた明るい顔をしたり、とたんに暗い顔になったりと、祐巳ちゃんの話によると(ご本人の百面相ほどではないが)、数面相くらいはしていたようだ。
 「あ、ううん。大丈夫大丈夫! 令さん元気! ていうか、ありがとね祐巳ちゃん、私、ついに挑戦するわ!」
 「はあ」
 ぜんぜん大丈夫じゃないかも、なんて顔をする祐巳ちゃん。体の具合か心の具合かどっちを心配していいのか、なんて迷ってることまでわかっちゃうのだから祐巳ちゃんの表情はやはり別格だ。
 「ほんと、大丈夫だってば!」
 「あう」
 と、ぽーんと祐巳ちゃんの背中を叩いてみせる令。
 それともつとめて明るくふるまうあたりが逆に心配されるのかしら、なんてまたも入り組んだことを令が考えていると。
 「ごっきげんよう! 祐巳さんヤッホー」
 いつのまに階段を登ったものか、こちらは一点の曇りもなく元気な由乃が扉をあけて片手をあげた。
 「やっほ!」
 祐巳ちゃんも笑顔で片手をあげてかろうじて由乃のノリに応えた。それじゃお猿さんだよ、祐巳ちゃん。
 「令ちゃん待った?」
 鞄を置くと由乃はおさげ髪を両手に握り、おじぎするようにして座っている令の顔をのぞき込む。由乃の上機嫌は私の上機嫌。
 「ううん」
 と、立ち上がりかけた令を制して。
 「待って、お茶でしょ? 私がやる。待っててくれたんでしょ。黄薔薇さまは座っていらして頂戴」
 と由乃は流しに向かい、ポットの電源を入れる。まだ熱が残っていたのか、ポットはすぐにコポコポと小さな音を立て出した。
 しかしなるほど、由乃さんを待って。だから令さまはお茶を後にしたのか。それを由乃さんも察して、自らすすんでお茶を入れにいく。しかも黄薔薇さまなんて敬称使って、つぼみの私がお茶を入れるのは当然ですよと、逆に気兼ねしないようにするなんて。わかりあってる二人ってやっぱりすごい。素敵。私もいつか祥子さまとこんなふうに、あれと言えばこれみたいに、いや、うんといえばすん?、いや、ツーといえばカー?、などと考えていることがだいたいわかる祐巳ちゃんのその顔に、令はもう本気で感心していたのだが。
 「あっと、いけない」
 ベリーショートのかぶりをふって、令は独り言から口を開いた。
 「忘れる前に言うのよ。由乃?」
 「なに?」
 よし、流しからひょこっと顔を出した由乃は上機嫌。大丈夫、令さん勇気を出します。出しますとも!
 「ほ、ほ、本貸して?」
 「えー、なあに? ポットの音で聞こえなかったー」
 コポコポより自分の声は小さかったのか。だが令はめげずに今度こそと声をはりあげる。
 「ほ、本貸して由乃!」
 「え、本? 何の?」
 「由乃の持ってる、剣客小説」
 まるで剣道の試合に望むようなまなざしで、令が言った。

  2

 それが先週の話。というわけで、令は今、ベッドに寝転がって剣客小説を読んでいた。正確に言うと、さっきまで。
 剣客小説を貸りたい、と聞いた由乃の笑顔が消えて、「何小説?」とけげんな顔をされた時は、うわしまった、と後悔しかけさえした令だった。あれ、喜ばないの? 読めない、まだ心が読めないのマイスール、なんて、はは。嘘です、ほんとにビビってました……。
 けれど由乃のその反応は、令がまたごきげんとりに心にもない余計なことを言いだしたのではないか、といぶかしんでのことだったらしい。
 令にはこたえるちょっとした問答のすえに、剣客小説を読みたいというその気持ちが本気であることが伝わるや、由乃は。
 そう、由乃はすごく喜んでくれた。それは令でさえほとんど見たこともないくらいの喜びようで。由乃はまるでクリスマスか何かのプレゼントをもらったように、ううん、それ以上に心の底から喜んでいるようだった。
 二人の帰り道。その笑顔を見て、逆に令がときめいたほどだ。よかった、こんなことでこんなに喜んでくれるなんて。もっと早く思いつけばよかった。などと、「こんなこと」が、どれほどのことなのかもよくわかっていない令なのだけど。
 それじゃあさっそく貸しましょう、借りましょう、ということになって、帰ったらまっすぐ由乃の部屋にお邪魔した。
 時代小説がずらりと並んだ本棚から、「これなんかいいんじゃないかな、ラブコメでもあるし、うん、令ちゃんきっと気に入るわ」なんて言いながら機嫌よく由乃が選んでくれた剣客小説がこれ。
 その名も『剣客商売』、池波正太郎の小説だった。
 うう、ストレートな名前、などとちょっとひいた令だったが、そんな気配はおくびにも出さず。
 「ありがとう!」
 などとその場は明るくお礼を言って借りて帰った。
 自分の部屋に戻った令は、読書の定位置ベッドに座ってさっそくその本を開いた。と、いきたかったところだけど、さすがにすぐには読む気になれず、ついつい読みかけの少女小説の方に手が伸びてしまう令。ふふ、コスモス文庫の『観音様がみえる』って面白い。
 違う、こんなじゃだめ!、と叫んで令はがばっとはね起きた。少女小説を読みふけっていつのまにかベッドに寝ころがっていたのだった。
 ベッドの上にある『剣客商売』をじっとみつめる令。うう、剣客も、商売も、筆絵の表紙も、少女趣味のかけらもない。せめて表紙が轟ジェミニ先生の綺麗な絵だったら。
 しかしなんとしても、ちょっとだけでも、今夜のうちに読まなければならなかった。
 明日になったら、ねえどうだった?、なんて必ず由乃が感想を聞いてくる。ああその笑顔がこわい。ごめん、まだ読んでなくて、なんて言おうものなら。そっか、なんてつまんなそうにする由乃の、ああその表情がこわい。こわいよラスカル、なんてつぶやいて、ぬいぐるみの太いしっぽを両手でぎゅっと握ったりする令。
 けれど結局、夕ご飯の後にも、お風呂の後にも、読むことが出来なかった。
 令がとうとうその本を開いたのは、ようやく寝る前のこと。由乃の笑顔を、そしてラブコメでもあるしという由乃の言葉を頼りに、令はついに読み始めた。
 で、どうだったかというと、これが以外と面白かったのだ。
 初めこそ古めかしい単語にとまどったりはしたものの、文章自体はかんたんで、慣れればするすると読める。ちょっと夜ふかししたが、2時間くらいで読んでしまった。
 翌朝、玄関先で、あんのじょう由乃が感想を聞いてきた。
 「読んだの?、え、全部!?」
 なんて驚いて笑顔になる由乃。報われる。ああ、私は君のその笑顔のために読んだのです。
 いやね、令ちゃんたらあくびなんかしちゃって、などと言う由乃のまた嬉しそうなこと。続き貸してね、と言ったら、由乃は腕をくんできて……ああもう、幸せ。
 そんな感じでそれ以来、一日ほぼ一冊ずつ借りては読む毎日。『剣客商売』は今日で4冊めになっていた。
 本当は途中の少女小説を読み進めたいんだけど、ちょっとの間がまんの令。ごめんなさい、忌野夏緒先生(『観音様がみえる』の作者)。借りるたびに花開く、あの娘の笑顔が悪いのです。でもこれは乙女の道にかなってますよね?
 とはいっても、当然、『剣客商売』も捨てたものではなく。
 『剣客商売』の舞台は江戸、時代ももちろん江戸時代。隠居した秋山小兵衛老人と、その息子大治郎の二人の剣豪が主人公の小説だ。この二人に、老中の娘で女剣士の佐々木三冬などが加わりつつ、剣劇が繰り広げられるのだが。
 やはり殺陣の場面は血もでてるし痛そうだしこわかったけれど、大治郎を慕うこの三冬の登場が令にはとてもありがたかった。なるほど由乃が言ったとおり、大治郎と三冬の関係はラブコメだ。
 それに、大治郎は道場の跡取り、三冬は女剣士と、ともに令と重なるところが多い。令はこの二人の若者に、とりわけ三冬に感情移入しながら読むことが出来た。そうすると、小兵衛もなんだか令の父親に似ているようにも感じてくる。ちなみに美味しそうな料理の話が毎度出てくるのもよかった。これはたんに美味しそうで。
 『剣客商売』の料理の場面はほとんどレシピになっているので、読んだ通りに小鰭の酢じめにゆずを少々たらしたりしたものなんかを作って夕食に出したりすると、これがまたお父さんに大ウケ。「令も本当に料理がうまくなったな」なんて褒められてしまった。
 そこでさらに、お父さん無外流ってどんな流派?、なんて小説仕込みの質問なんかしちゃったりすると、しかめつらしい顔して講釈しだすお父さん、これまた大喜び。一冊で家族円満、由乃もニコニコ。池波先生、さすがです。
 部屋に帰った令。さあ今夜も読みますか、と4冊めになる『剣客商売 天魔』を開いていたら……。
 そこで冒頭の三冬の夢のシーンが出てきて、令はぴょーんと跳んだのだった。

  3

 由乃の陰謀?、なんてことも考えてしまった令だったが、とりあえず気をとりなおして再び文庫本を開いた。つ、続きを読まなくっちゃだわね、などとつぶやきながらなぜかあたりを見回す令。誰も見てないよね、って自分の部屋だから当たり前か。
 さてとどこまで読んだっけ。


 しかし、つぎに、三冬は大治郎へのしかかるようにして、
 「これでもか、これでもか……」
 よばわりつつ、大治郎の稽古着の胸もとを乱暴に引きめくり、鞣革を張りつめたような男の若わかしい胸肌へ、無我夢中で顔を押しつけ、くちびるで、厚くもりあがった大治郎の筋肉をまさぐりはじめるのだ。


 こっ、ここまでよね。
 赤くなってしまう令。出てきた唾を思わず飲み込んでのどを鳴らしてしまう。いけない鼻息が、と今度はその口を開けたりなどしてなんだか忙しい。
 令はどきどきしながら続きを読んだ。


 「あっ……」
 思わず声を発し、目がさめてしまう。
 そのときの、佐々木三冬の全身は汗ばみ、だれも見てはいない寝間の薄明の中で、三冬は寝衣の中から両手にわが乳房を押え、
 (なんという、みだらなことを……)


 「な、なんという、みだらなことを……」
 とそのまま口走ってしまった令。いつのまにか自分ももう片方の腕で胸をかき抱いていたことに気づいて、あわわと腕を解く。
 だれも見てはいない寝室の明かりの中で。
 (ほ、ほんとに誰にも見られてないよね?)
 なんてまたきょろきょろきょろしてしてから、でも令は続きを読むのをやめられない。


 羞恥にさいなまれて顔も体も火照らせ、さいなまれつつ、おもいもよらぬ昂奮に酔いしれている自分を、どうすることもできない。


 (そ、その通りです、池波先生。つ、つ、続きは……?)


 ま、それはさておいて……。


 「さておくんかーい!」
 と、思わず令は叫んで。今度ぽーんと跳んだのは文庫本だった。
 「あっと」
 床に落ちた文庫本を、あわてて痛んでないか確認してしまう令の姿は小心者そのもの。それにしても。
 「まったく由乃ったら、なんて本を貸すんだろう」
 まさかこれを見越して小説を選んだんじゃないよね、などとつぶやきながら、しかしどうしても由乃に意図があるんじゃなかろうかと令は勘繰ってしまう。疑えば影というか、これまでそろったものですぐさま一つのシナリオができあがってしまうことに令は気づいた。
 由乃は剣道部に入る。令は剣道部の先輩。剣道部は武道館を使う。令の家にも道場がある。そして由乃は令に小説を貸して、その小説に書かれた夢は、道場で恋人と稽古してて「これでもか、これでもか」……。
 「はっ!? ま、まさか……」
 まさか、由乃は稽古で令を柔道みたいに組み敷いて、胸にすりすり、まいったかぁ、まいったかぁ、したい、と?!
 本を借りようとしたのは自分の方なのに、そんなシナリオの穴に令は気づいているのかいないのか。それに、まいったかぁ、も間違い。これでもか。
 「ふ、まさかね。寝よう寝よう」
 などと短い髪をかきあげながら心持ちクールにつぶやいて、令は自分の考えを妄想だと打ち消した。


 それが、そのまさかが、本当のことになるなんて。


  (『黄薔薇御稽古(下)』に続く)


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