une Sable nouvelle a L'eau de rose 子羊たちの沈黙
子羊たちの沈黙 〜『ロサ・カニーナの華麗なる冒険』opus.1〜
ウゥナ フゥルティ〜ヴァ ラァグリマァ〜〜〜……
ドニゼッティの『愛の妙薬』から「人知れぬ涙」で、ごきげんよう。
私の名前は蟹名静。元リリアン女学園高等部二年生。
イタリア帰りの女、って呼んで。
むこうで音楽学校の入学手続きもすませて、日本の夏休みに合わせて軽く帰って来たのだけど、ちょっと失敗。
暑いわね、日本の夏は。
というわけで私は今、避暑をかねて小笠原家の別荘に来ている。
そう、コードネームはタヌキちゃんこと祐巳ちゃんと、恐るべき女こと祥子さんの二人が避暑に来ている、○○○にある小笠原家の別荘。
の庭先に。
もちろん中には入ってないし、二人にも会ってはいないけれど。
もちろん中に入ってもいいし、二人にも知られはしないけれど。
今は夜。
こうして黒のライダースーツを着て、木の上に座って、二階の二人の部屋をうかがっていると。
ついリリアンでの学園生活そのままだから、センチメンタルになってしまう。
だめね。最近、感傷的で。
あっ、祐巳ちゃんが部屋に戻ってきた。
寝間着に着替えだす祐巳ちゃん。ふふ、可愛いわね。描写はひかえてあげる。
しかしもう寝るのだろうか。結構早い時間なのだけど。
着替えた祐巳ちゃんはやはりベッドに座って、さて寝るのかしら、と思ったら。
祐巳ちゃんはなぜか自分の枕をかかえて、立ち上がって、ドアまで歩いて。
ドアノブに手をかけようとするけど、その手はふるえていて。
やがて祐巳ちゃんは枕を抱えたまま、ぐるぐると部屋を歩きまわりだした。
ははん。
一応、顔を読みましょうか。
どうしよう、今夜こそお姉さまと一緒に寝よう、なんて思ったけど。でも言えなかったし。枕を持っておしかけたりしたら、やっぱりお姉さまは、不躾な子、なんて思うんだろうな。でもでもでも、さっきお姉さまの肩に頭をのせたら、髪をなでてくれたし。脈はアリかも、なんて。ああ、雷とか鳴ってくれないかな。口実に出来るのに。
なんて。ちなみに肩に頭をのせてうんぬんのところは、不意に立ち止まったかと思ったら、首をこてんと横に倒して、枕を片手にあずけて自分で自分の頭を撫でて、ふにゃ、って顔したあたりからの推測。
まあ、どうせ祐巳ちゃんは当分の間ぐるぐる回ってるでしょうから、しばらく置いておいて。
一方の祥子さんはというと。
寝間着に着替えると、今夜もベッドの下から枕を一つひっぱりだして、自分の枕に並べて、ぽふぽふと叩いて整えて。
立ち上がってドアまで歩いて、腕組みして仁王立ちになり、びたりと制止した。
今夜も待っている。祐巳ちゃんが来るのを。
だから祐巳ちゃん、枕はいらないのよ。
やがて祥子さんは今夜もしびれを切らして、いらだたしげに親指の爪を噛むようにして、ぶつぶつ言いながらぐるぐると部屋を歩きまわり出した。
ふふん。
読唇してみましょう。
まったく、祐巳ったら、今夜こそ来るかと思ってたのに。一体何してるのかしら。ええ、たしかに、口では一言もお願いなんかされてなくてよ。だけど顔ではあんなにくどく不躾に、今夜はお姉さまと一緒に寝たい、寝たいな、寝ていいですか、ってお願いしておいて、もう。おまけにさっきは、肩に頭なんかのせて甘えてきたくせに。どうしてその度胸があるのにこの度胸がないのよ。ああ、雷とか鳴らないかしら。あとひと押しって感じなのに。ああもう!、鳴りなさい、雷。
いったい、どっちが度胸なしなんだか。ちなみに祐巳ちゃんの百面相のあたり、似てない顔まね付き。
まったく不器用なくせに、お熱いったらない二人。避暑に来たというのに。
でも、この二人って本当に面白い。私、結構ファンなの。
やはり来た甲斐があった、なんて思っていると。
カラカラ、と竹筒の打ち鳴らされる音が。
小笠原の結界に何者かが触れた! おそらく先ほど足下に見かけた、七三こと山口真美とカメラこと武嶋蔦子だ。
なんとはた迷惑な。
祥子さんはベランダの大窓を開けに来た。家人の誰よりも早いとは、やはり恐るべき女。
私の座る木とベランダの距離はおよそ5メートル。木の幹の影に隠れたとしても、空中ではこらえがたい。
そう判断した私は、間一髪で木から飛び降りたけれど。
窓が開く、その瞬間が私の着地であり、足元の草を鳴らしてしまう。
不覚。
祥子さんの鋭い誰何の声が、草むらに隠形した私の頭上に降りかかる。
「誰!?」
鳴ってしまった音はとりかえしがつかない。だが。
ある種の音声は人間の心を支配する!
「にゃ〜ん」
「なんだ、猫」
成功。
祥子さんは窓を閉める。
けれど数瞬の後に、彼女は。
このあたりに猫などいるはずもないということに思い至る。
彼女は再び素早くベランダに出るだろう。
けれど、草の間にも、夜の闇にも、私の姿はもはやない。
私の名前は蟹名静。
コードネームは、ロサ・カニーナ。
完 (2003.9.30初出@journal/10.24up)
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