une Sable nouvelle a L'eau de rose コードネームはロサ・カニーナ 〜いばらの森の王〜

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  コードネームはロサ・カニーナ 〜いばらの森の王〜


 私の名前は蟹名静。リリアン女学園高等部二年生だ。
 今、「二年生」と入れたら、また「生」が「聖」の字に誤変換されてしまった。きゃっ☆
 だが私は決してこの辞書候補を直しはすまい。

  1

 ×月×日

 やはりあの女は私と同じ能力を持っていた。
 コードネーム、タヌキ面こと福沢祐巳を調査するようになり、すぐに気づいた。あの女とは、もちろんタヌキ面のことではない。
 コードネーム、紅薔薇のつぼみ。恐るべき女こと小笠原祥子だ。


 はじめは可愛らしいものだと一笑にふしていた。
 クリスマス前の二学期最後の試験期間。
 その前日の下校時、タヌキ面と紅薔薇のつぼみは仲良く校庭を歩きながら。

 明日から試験ですね、お姉さま。

 そうね。どうしたの祐巳、悩み事でもあるの。試験勉強? そんなもの、普段からちゃんと授業を受けていれば、必要なくてよ。そう、でも、頑張るのはいいことだわ。明日からしばらく一緒に帰るのはひかえましょうか。試験の間は集中なさい、祐巳。

 おおむね以上のように読唇できる会話を交わした。
 両者の表情もあわせ読むと、そこから以下のことがわかる。
 タヌキ面は当初、試験に暗くなりながらも、ひょっとして姉の紅薔薇のつぼみが勉強を見てくれるかもなどと一瞬期待したようだが、見事に墓穴を掘り、姉妹の下校タイムすら失った。
 タヌキ面=ドジっ娘。のメモに二重下線。
 一方、紅薔薇のつぼみからはやや複雑なものが読める。
 「でも、頑張るのはいいことだわ」と言う折、紅薔薇のつぼみは一瞬正面を向いてタヌキ面から顔を見えなくし、明らかに言葉とはうらはらの拗ねた表情を浮かべた。続く発言ではふたたびタヌキ面に向きなおったが、その顔からは先ほどの表情は嘘のように消えていた。
 つまり、紅薔薇のつぼみは本当は試験期間中もタヌキ面と下校したかったが、姉として立派にふるまうことで、それを断念したことになる。だがどうもそれだけでもなさそうだ。ふたたび正面に向きなおったその表情は、無に近くも余裕か決意のようなものまでただよわせ、ようとして読み切れなかった。
 紅薔薇のつぼみ=ええ格好しい、?。とメモ。


 面白かったのは翌日からの紅薔薇のつぼみの行動である。
 紅薔薇のつぼみが、休み時間にちょくちょく1年桃組のタヌキ面の様子を廊下の角をへだてた窓から見ていることや、ときおり昼休みの初めになにやら弁当箱を二つも持って、やはりそのあたりにしばらくたたずんでは去っていく、などということは、すでに当のタヌキ面以外の全校生徒の知ることだが。
 試験期間の下校時。
 玄関から校門へと、ため息などつき暗い顔をして、タヌキ面にみがきをかけたタヌキ面が歩いていくその後ろ姿を、校舎の角からマリア像の裏へと移動しながら見守っている紅薔薇のつぼみを見かけるようになった。
 声をかけたらええやんか、と思わずツッコミたくなる。その後ろ姿を見つめる後ろ姿を、さらに後方の木陰に立って見る私だったが。
 ちなみにその後どうなるかというと。
 何も知らないタヌキ面は校門から出て一人バスに乗るわけだが、紅薔薇のつぼみは待機させていた小笠原家の黒のロールズロイスにすっと乗り込み、バスの後を遠巻きに尾行するのだ。
 私は一度校門でそれを確認した後、タクシーでM駅に先回りしてみたことがある。
 あんのじょう、小笠原の黒い車はタヌキ面を乗せたバスをM駅まで尾行してきた。タヌキ面が改札への階段を登っていくのを確認すると、小笠原の黒い車は満足したように去っていくのである。
 なんのことはない、紅薔薇のつぼみ姉妹は試験期間も休まず仲良く一緒に下校していることになる。20メートルほどの距離をへだてて。タヌキ面はそれを知らないが。
 妹の手前、お姉さまの意気地を見せたものの、やっぱりタヌキ面と一緒に帰りたかったのだ。一体あのタヌキ面のどこがそんなにいいのかしれないが。
 紅薔薇のつぼみ=あまのじゃく。とメモ。


 しかしつまり、あの女はやはり私と同じ能力を持っているのだ。
 その能力には最近目ざめたばかりらしく、私に気取られているように、まだまだ私には遠く及ばないが。
 そう、あの女は私の敵ではない!
 あの女が一年前、かつての紅薔薇のつぼみの妹となって薔薇の館の新人となり、あの方に出すためのダージリンの茶葉を探していたころ、私はすでに薔薇の館のすべてを知っていた。
 山百合の名をいただく、このお菓子を食い紅茶をすする者たちのクラブが、あの方の危機を知らずのんびりとしていたころ、私はすでに心を焦がしてあの方を見守っていた。
 あの女が志摩子を妹にしようとして失敗していたころ、すでに私はギンナンの実を踏みにじっていた。
 あの女の技術がよろめき生まれる前から、すでにして私の技術は古く力強かった。
 しかし私は薔薇の館を見くびってはいない。私は歌のみならず愛にも精通している。私はまだ疲れてはいない。
 マリア様だけが見もし、また知ってもいよう。そう、私の敵はただ一人。
 私の敵は、愛しいあの方のみ。


 私の名前は蟹名静。リリアン女学園高等部二年生。
 コードネームは、ロサ・カニーナ。

  2

 ×月×日

 すでに冬休みだ。
 しばらく報告を怠ってしまった。書こう。


 二学期末の試験期間も後半のころだった。新聞部言うところの「白薔薇事件」、すなわちあの方が須加星名義で自伝的小説『いばらの森』を公表したのではないか、との噂がまことしやかに一年生層を中心に広まったのは。
 合唱部の後輩がいちはやくK町の書店で入手してきた『いばらの森』を読んで、これがあの方の「出来事」によく似ていることに驚きながらも、それが少なくとも現在か過去のリリアン在校生の手になるものと目星をつけた私は、六人いる使徒を二人ずつに分けてことに当たらせた。すなわち。
 一組は、生徒たちからの情報収集と情報操作。
 次の一組は、かの小説の出版元である宮廷社への電話問い合わせ(『いばらの森』の著者はあの方かどうか?)、ならびにあの方の監視。
 そして最後の一組に、過去のリリアン学園高等部卒業生の名簿をすべて洗わせることを命じた私は、一人聖堂へと赴いた。
 あの方のことを神に祈るため?
 否、私の技術を使うために。


 「なりません、そのようなこと。シスター上村の名をかたるなど!」
 ステンドグラスからさし込む、色どられた冬の日に照らされたためではないだろう。明らかに自分の血によって青ざめてその年若いシスターは言った。
 シスター上村とは、現学園長の上村佐織のことだ。
 聖堂には、今、私と彼女の二人きりしかいない。
 部下による宮廷社への電話問い合わせの、ことごとくの不首尾を知った私は、かつて私の歌がもたらす法悦に打ちのめされて以来、私の使徒のようになったこの年若いシスターを使おうと考えた。彼女の職名において、宮廷社に問い合わせさせようと思ったのだ。
 けれどこのシスターは、若いがゆえに使いやすいが、若いがゆえに臆病でもあった。だから。
 「では、シスターご自身の名によって、お問い合わせ願えませんか?」
 私はまず、無理であろう学園長の名をかたることを頼み、しかるのちに条件を弱めたようにみせかけて、もとよりの真意を依頼した。
 だが、彼女はなお臆病であった。
 仕方がない。
 私が祭壇に歩みを進めるのを見たシスターは、次に私が何をするのかを知って少女のように叫んだ。
 「やめて!」
 だが私は止めはしない。

  ラッパは驚くべき音を
  この地の墓という墓にまき散らし、
  すべての人を玉座の前に集めるだろう。

 私は自分の貧しい素養をいささか恨みながら、ヴェルディの『レクイエム』から「ラッパは驚くべき音を」を選び、ひとくさり歌い出した。耳を押さえおびえるようにするシスターの前で、私はおごそかにラテン語を使った。やがてこの事件に似つかわしい詩が現われる。

  世が裁かれるための
  すべてが書き記されている書が
  差し出されるだろう。

 だが、いまだ黙示録を好んで読むこの淫らな若い女には、レクイエムがふさわしかろうとも考えたのだ。彼女はもう、耳と耳からはなした手と手を祈りの形に組み、私を通して私の後ろにある何物かを恍惚と見るようだった。
 私の後ろには、女の形をした土くれ以外何も無いというのに。

  その時、哀れな私は何と言おう。
  正しい者さえ不安を感じる時、
  誰に弁護を頼んだらいいのだろう。

 法悦に打ち震えるシスターの目から落ちた涙を、私は私の歌の休止符とした。
 マリアのように両手をわずかに拡げて言う。
 「私の大切なひと、正しかるべきひとが、誤った裁きを受けるかもしれないのです。あなた以外の誰に、私は弁護を頼めましょう?」
 おごそかに慈悲を乞うような神秘の声音の奥で、私の胸では高らかな世俗の歌が鳴り響いていた。
 シスターは神の愛とやらを感じただろう。
 だがこれは技術に過ぎない。私の愛は隠されている。


 翌日、試験最終日には、すでに私は『いばらの森』の作者があの方ではなく、春日せい子なる人物であるという情報を握っていた。むろん、例のシスターが問い合わせたのだ。
 (あとはその情報をどう使えばよいか)
 放課後の教室で、試験期間をいとわず働いてくれた部下の労をねぎらいながら、そう考えていた時だった。
 『三年藤組、佐藤聖さん。至急、生活指導室に来てください。繰り返します……』
 冬の雷のようなものが私の背骨を走りぬけた。
 私は六人の友人の輪を割って廊下へと走り出た。

  3

 あの方が生活指導室に呼び出された!
 理由は何だろうか。やはり『いばらの森』がらみか。
 薔薇の館は何をもたもたしているのだ。
 いや、もたもたしていたのは私も同じだ。
 後悔で泣き出しそうだった。
 私は私の技術におぼれていた。
 何が「あとはその情報をどう使えばよいか」だ!
 あの方をお救いできなくして、何が私の技術だ!
 階段を降り、生徒指導室前をうかがえる廊下の角の陰に立ち止まると、その私の側を、スカートのプリーツを振り乱し、白いセーラーカラーをぱたぱたと翻らせたツインテールの生徒が走り過ぎた。
 タヌキ面!
 タヌキ面は生徒指導室の手前の廊下で立ち止まり、軽く歯をかみしめたような顔をしてきょろきょろと周囲を見回した。その顔は。
 悔しい。
 そうだ。その顔には「悔しい」と書かれていた。あの方の誇りを思っているのだ。私はタヌキ面のその心ばえをつい愛しく感じた。そう、私もまた悔しいのだ。あの方が生活指導室に呼び出される屈辱。
 タヌキ面からタヌキちゃんにコードネームの変更を検討、とメモ。
 その時だ、向こうの角を曲がって廊下にあの方が立ち来ったのは。恥ずべき呼び出しを受けたというのに、口笛でも吹きながら陽の光の下を散策するようなそのお顔、その足取り。
 だけど、だから、そんなあなたが好き。
 そのお姿の後ろに、つき従うようにして遠巻きに下級生たちの群れが現われる。
 「あれー、祐巳ちゃんも呼び出し?」
 タヌキ面の姿を認めたあの方が言った。
 「じゃあ、呼び出し理由は不純異性交遊かな」
 あ、あんですとおおおお!?
 一瞬、これまでの忍びの努力をかなぐり捨てても飛び出し、あの不埒千万なタヌキ面を処分しようとしかけたが。
 しかしタヌキ面の表情を読むに、あの方はご冗談をお召しになっただけらしい。
 ひきつづき会話を聞く。あの方は『いばらの森』騒動をまったくご存じない様子。あの方らしいというべきか。
 「そうだ。私も聞こうと思っていたんです。『いばらの森』は白薔薇さまが書かれたんですか?」
 こんな質問をタヌキ面がするあたり、やはり薔薇の館はまだことの真相を知ってはいないようだ。
 やはりあてにならない。あてになどしていないが。
 生徒指導室の扉がドアが開き、あの方は悠然と中へ入ってゆく。
 一体、何の問題で呼び出されたのか?
 『いばらの森』著作の嫌疑であれば、私がお救いできる。いや、たとえいかなることであろうと、必ずやお救いしなければならない。
 閉ざされた扉がはがゆい。
 ああ、何度、私とあの方の間に、この扉のようなものが立ちはだかったことだろう。
 打ち破ってしまいたい。
 つまらぬ感傷が沸き起こる。私としたことが。
 それはそれとして、いっそ校舎外に出て生徒指導室の窓外から内部をうかがうべきか、と身をひるがえしかけたところ。
 廊下に集まった生徒たちの隙間を、はい、ごめんなさいよ、という具合に卑しげに姿勢を低くしてすり抜け、扉へと身を寄せて聞き耳を立て出した馬鹿者がいた。
 粗忽をきわめる新聞部部長、コードネーム新聞屋こと築山三奈子だ。
 なんたる低能。
 生徒指導室は完全防音であることを知らないのか。知らないのだな。
 すでにタヌキ面に合流していた黄薔薇のつぼみの妹、島津由乃(ちなみにコードネームは姉ころがし)が、その見苦しさにたまりかねてそのことを新聞屋に教えてやった。
 「おほほほほほほほ」
 などと照れ隠しに笑う新聞屋。ただ滑稽さだけがわずかに無礼ぶりの救いとなる類いの輩である。
 つきあうまじ、と踵を返しかけたタヌキ面と姉ころがしをむんずとつかまえて、新聞屋はこの二人に聞き込みを始めた。
 さすがに薔薇の館の二人は不用意に口を割らぬ様子。
 新聞屋めはこの件に早々と「白薔薇事件」などという仮称を与えて、得々としている。
 「黄薔薇革命」のように面白おかしく『リリアンかわら版』に書きたてたら、新聞屋、私がどういう目に会わせようと思っているかわからないのか? 思っているだけだからわからないか。
 「いいのかな? 大好きな白薔薇さまが退学しちゃっても」
 「た、退学!?」
 「た、退学!?」
 よりによってタヌキ面とハモってしまった。天空の和声たるべき私の声が。
 けれどその不穏な発言の理由は、新聞屋が何か私の知らない別情報を握っていたからではなく。
 アルバイトは校則違反だ、とか、白薔薇さまが許可もらっていると思う?、などと的外れな会話が続くからには、退学うんぬんという新聞屋の発言は、あの方が『いばらの森』の著者だという間違った前提での話に過ぎないことがわかる。
 驚かすな馬鹿者。
 この新聞屋のごとき厚顔無恥の輩を泳がせるままにしてあるのは、たんに私が全能ではなく、私の知り得ぬ情報をつかむこともあるだろうからなのだが。
 もちろんそのような偶然は万に一つもなく、だからいまだ的外れな会話が続いている。
 「データによると、何年か前に風俗関係の店でアルバイトしていた生徒は生活指導室に呼び出しを受けたその日に退学処分になっているのよ」
 おいおい、お前を風俗に売り払ってやろうか、新聞屋。
 タヌキ面が抗弁する。
 「でも、風俗のお店と小説家って、全然レベルが違うじゃないですか」
 「考え方は人それぞれじゃない? 自分の身体を売るのと精神を売るの、いったいどこがどう違うの」
 タヌキ面はなおも納得しかねるといった面持ちだが、これは未熟。
 新聞屋は珍しく正しいことを言った。労働において私たちが売るのは時間である点で、身体か精神かに違いなどないのだ。それが「職業に貴賤なし」を支える原理である。
 新聞屋=ごくまれに「イワンのばか」、とメモ。
 新聞屋につめよられたタヌキ面が、生徒指導室の扉に追い詰められる。
 と、扉が開き、背中から室内に倒れ込んだタヌキ面を、内側から抱き支えたのは。
 なんという幸運!
 またもあの方だ。あの方がタヌキ面を抱きとめられた。
 許せない。
 うらやましい。
 ずるい。
 私もあの方に倒れ込みたい。むしろ正面から。
 占星術、手相、観相術、姓名判断、天中殺、カバラ数秘術その他、タヌキ面固有の占い上の諸運勢を総チェック(ただし血液型占いは不要。あれは世界でも日本人のみが信じる迷信に過ぎない)、とメモ。
 「白薔薇さま、白薔薇さま、……私っ」
 「ごめん。これ以上支えきれないから離れて」
 そうよ、離れなさい!
 離れはしたものの、恨めしくもあの方はタヌキ面の耳もとで囁かれた。御唇を読むに。
 「それに、生活指導室の中で抱き合ったまま崩れちゃまずい」
 ああ、私も囁かれたい。
 そして抱き合ったまま身も心も崩れたい。意味違うか。
 あの方はタヌキ面だけでなく、周囲の生徒にも聞こえるように宣言された。
 「残念ながら『いばらの森』を書いたのは私じゃないからね」
 良し。
 あの方がこの場でそうおっしゃるからには、やはり呼び出しの理由は件の小説であったらしい。そしてそのお言葉は同様に生徒指導室でも証しだてられたはず。
 私が忍びの身を現わしてお救いするには及ばないらしい、と安堵した、その時。
 やはりいた!
 あの方とタヌキ面の向こう。新聞屋と他の生徒の隙間の奥。生活指導室をはさんで私と正反対の廊下の角の陰に立つのは。
 紅薔薇のつぼみ! 小笠原祥子!

  4

 やはり同じ能力者、薔薇の館で最も恐るべき女、紅薔薇のつぼみ小笠原祥子。
 あの女もまた、あの女なりにあの方を心配してか、生徒指導室前でくりひろげられたこの状況を忍びうかがっていたのだ。と、次の瞬間。
 こっちを見た!
 どちらが早いか、見られたか。私は廊下の角に身をもぎ引いた。
 背骨をおぞけが走る。背筋に冷たい汗が這う。
 私は角の壁のこちら側に左手をあてた。目をつぶる。
 やはり見ている。
 ここを。この角を。この壁のあちら側を。
 私にはわかる。私にはわかるのだ。
 手のひらに伝わる、紅薔薇のつぼみの大変な視線の圧力。
 と、不意にそれが消え去った。
 私は角からわずかに頭を出して向こうを覗く。
 やはり消えている。
 向こうの角には紅薔薇のつぼみの姿はない。
 私は安堵したか?
 私は安堵などしない!
 私はただちに身をひるがえし、階段を駆け登った!
 舌打ちをしなかったのは、私がかりそめにもリリアンの生徒であったから。
 セーラーカラーを翻し、スカートを乱しながらも、音もなく私はまたたく間に二階へと昇り、そこで留まることなく、さらに三階をめざして次の踊り場へと駆け登る。
 私がその踊り場にたどり着くかつかないか、背後の二階の廊下の角を曲がって階段場へと驚くべき速さで現われたのは。
 やはり! 紅薔薇のつぼみ!
 私の裏をかきに来た!
 紅薔薇のつぼみはそのまま私がいたはずの一階へと走り降りていく。着衣も乱さず見事な速度。だが。
 私は気配を消したままするすると二階に降り、さらに堂々と半階下の踊り場に降り立った。
 一階の階段場、わずか数瞬前まで私がいた、その場所に立ち、私とよく似た長い黒髪を揺らして周囲をうかがう紅薔薇のつぼみ。それを静かに見下ろす私。その距離、わずか階段十余段分。
 重ねて私の心胆を寒からしめ、この私の裏をかこうとしたまでは見事。
 だが、私の方が強い。
 おのずと頬が動いた。私は笑みを浮かべていた。
 紅薔薇のつぼみがこちらを見上げる。
 だが、そこには無人の踊り場があるだけだろう。
 あの女は駆け昇ってくる。
 だが、二階にも三階にも、私の姿はすでにない。


 私は聖堂に寄り、例のシスターに『いばらの森』を手渡して、家路についた。
 念のため、学園長がそれを読むようにしむけたのだ。
 『いばらの森』の作者、須賀星こと春日せい子は、学園長上村佐織と一学年違いの同窓である。それは事実であり、その手を打つことは私の勘だった。


 十二月二十四日。
 その日はクリスマス・イブであると同時に、リリアン女学園高等部二学期の終業式の日でもある。
 そしてそれはまた、あの方のめでたき誕生日の前日でもあった。
 ミサの後。
 私はいつもの場所から薔薇の館を眺めていた。
 薔薇の館の内は飾りたてられ、あの方も、そのまわりにいる他の薔薇の館の住人も、クリスマス・パーティに沸いている。

  おお、運命の女神
  あなたはあの月の面(おもて)が
  変わるにも似て、
  欠けては満ち
  満ちては欠ける。
  人の世の、情けもなく、
  喜びも苦しみも
  意のままにして、
  人の心を弄ぶ。

 あの年若いシスターをたぶらかした時、私の胸の奥で鳴り響いていた高らかな歌。
 世俗カンタータ、オルフの『カルミナ・ブラーナ』。
 その同じ歌が、今はなぜかわびしく私の口からつぶやき漏れる。
 あの時は私が運命の女神だった。だが今はあの方が。
 いや、つねにあの方こそが私の運命の女神。

  運命の女神のつれなさに
  胸傷み、涙流れる。
  その恩寵(めぐみ)を
  私にはつねに拒み与えないのだから。

 知らないうちに、私は中庭に降り立っていた。
 冷たい冬の風の中。
 少しでも、あのまぶしくあたたかい薔薇の館に近づきたかったのか。
 あの方があそこにいる。
 あの方を館の中に感じる。

  運命の車輪はさらにまわり、
  私は落ちぶれてしまった。

 ああ、どうして私はここにいて、あそこにはいないのだろう。
 どうして私はあそこにはいず、ここにいるのだろう。

  他の人が私に代わって、
  あの高みに昇ってしまった。

 だがあの方は私を知らない。私がここにいることを知らない。私がいるということを知らない。
 明日はあの方の誕生日だというのに、私はまだ生まれてさえいない。
 あの方がかつて「いばらの森」を歩まれたというのなら、私はいまだ「いばらの森」の王なのだ。

  玉座に座っていらっしゃる君も
  落ちさらばえた私の身を想って……

 あの方は私の身など想っていない!
 私は歌の素養を呪った。私の技術を呪った。
 こらえたのに、薔薇の館の輪郭が揺れていく。
 歌などいらない。
 技術などいらない。
 ただあの方が……!


 ただ一度でいい、あの方のお側に立ちたい。
 あの方の瞳に、私の姿を映し出したい。


 それが私のただ一つの本当の歌と、その時ついに私は知った。


 私の名前は蟹名静。リリアン女学園高等部二年生。
 コードネームは、ロサ・カニーナ。


  完

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