une Kaoru Simabara nouvelle a L'eau de rose 不思議五円玉体験
桜も散って徐々にではあるが夏の彩りを見せ始めたこの頃。
薔薇の館の新たな住人となった二条乃梨子は薔薇の館までの道をプリーツを乱さない程度に急いでいた。
理由は至極簡単、掃除が終わった矢先に頼まれごとをされて遅れてしまっただけのこと。ただ、自分が山百合会の新人である以上は不用意に遅刻など出来ないし、意外と体育会系であることがこの前判明した紅薔薇さまのことを考慮してもあまり遅れたくない。
自然と早足が駆け足になっていた。
不思議五円玉体験
「ご、きげんよう」
息苦しいながらもなんとか搾り出した声がサロン兼会議室に響く。乃梨子は結局ここまでの道を走ってしまった。おかげで目に飛び込んできたのは不思議そうな顔でこちらを見てくる志摩子さんだった。
「どうしたの?」
「急いで、走って、きたので」
どうしてと、訊ねてくる志摩子さんの隣に座って乃梨子は勢い良く目の前に用意された紅茶を一息に飲んだ。とてもリリアン生らしくない所作だが、所詮私は逆隠れキリシタン。それが果たして言い訳になるのかは置いといて。
「はー」
なんとか落ち着いてきた心臓と肺は心地よい疲労感を乃梨子にもたらす。しかし、隣にいる志摩子さんは相変わらず怪訝そうな顔つきだった。
こんな妹でガッカリしちゃったかな。
そんな心配がやっと顔を出した始めた時に志摩子さんはクスっと微笑んだ。
「よく分からないけど大変だったのね」
「え? あ……はい」
志摩子さんの、未だに春の陽気を身に纏ったような笑顔に乃梨子は返事をした後、ハハと、苦笑した。そうだ、この人はこんなことで私を判断するような人じゃない。
本当にこの人の妹で良かった。
「私もあなたの姉になれて嬉しいわ」
「……良い雰囲気ですがモノローグを読まないで下さい」
「ごめんなさいね、それともう一つ言わなきゃいけないことがあるわ」
「なんですか?」
頬に手を当てて志摩子さんは先ほど乃梨子が飲みほしたティーカップに目を向けた。自然と乃梨子も視線を追う。
「それ、由乃さんの分なの」
「え」
言われた途端、それはマズイとばかりに乃梨子は黄薔薇のつぼみの姿を探す。探す途中で、目を見開いている紅薔薇のつぼみと目が合った。どうやら先ほどのやり取りを見ていたらしい。
黄薔薇のつぼみはどうやら部屋の隅で黄薔薇さまとゴソゴソと何かしているようだった。黄薔薇のつぼみは黄薔薇さまを椅子に座らせて、顔に手をかぶせたまま何か呟いている。
「催眠術をしているらしいの」
乃梨子が疑問を口にする前に志摩子さんが答える。確かに、二人の姿はよくテレビの特番とかで催眠術師がやってることに似ていた。ただ、黄薔薇のつぼみはどこかじれったそうに、時々体を揺すっては黄薔薇さまに催眠術をかけている。
「なんでも昨日、先代の黄薔薇さまに催眠術をかけられたらしくて。はい、これ」
「はぁ……」
いまいち言葉の足りない志摩子さんの説明に気の抜けた返事をする乃梨子に数枚のプリントが手渡された。それをなんとなくで受け取った後、乃梨子はプリントと志摩子さんを交互に見た。
志摩子さんは「私達は、仕事」と、微笑んだ。
それにしても変な空間だなと、乃梨子は再度部屋を見渡した。書類整理をしている志摩子さんと自分を除いて他の人は全く仕事していない。黄薔薇姉妹は催眠術に熱中しているし、紅薔薇のつぼみはお姉さまである紅薔薇さまが今日は来ないらしくぼんやりとしている。
こんな山百合会の状況を他の人はどう思うだろうか。まるで雲の上の存在として崇められていると言っても過言ではない山百合会。きっと先代の薔薇さま達が見たらお嘆きになることは必至だ。
「あら、結構笑ってるかもしれないわよ?」
「だから人のモノローグ読まないで下さい」
訂正、私達姉妹も十分変だった。
「ああ、もぅ!」
目の前の仕事に取り掛かり始めて十分ぐらいしただろうか、突然先ほどまで催眠術をしていた黄薔薇のつぼみが叫んだ。
「どうしてかからないの!?」
そのまま喚き散らす黄薔薇のつぼみに、黄薔薇さまは苦笑しながら椅子から立ち上がる。
「そんな簡単には出来ないって」
「でも、黄薔薇さまには出来た」
「お姉さまは特別。由乃だって分かるでしょ?」
黄薔薇さまの言葉に黄薔薇のつぼみはそれ以上反撃が出来なくなったのか、頬を膨らませてむくれると紅薔薇のつぼみの隣に勢いよく座った。
「だって、私だけがかかるって悔しいんだもん」
「だからー」
話によると、先代の黄薔薇さまは黄薔薇姉妹に催眠術を試して結果として黄薔薇のつぼみだけが催眠術にかかったということらしい。ついでに、ネコになる催眠術だとか。
「可愛かったなー。ネコになった由乃」
その時のことを思い出してるのか、黄薔薇さまはこれ以上ないってぐらい表情を崩してにやけている。今の顔は絶対に黄薔薇さまファンには見せられない。活字で良かった。
「にゃーにゃーってさ。ごろごろ懐いてきて」
「令ちゃんっ」
ぶっ飛んでいる黄薔薇さまにとっくに業を煮やしている黄薔薇のつぼみは思い切り睨む。しかし、遠い世界のお友達となってしまった黄薔薇さまに効く筈も無く、黄薔薇のつぼみの怒りは大きなため息となった。
「もう良いわ。祐巳さん、こうなったらあなたの出番」
「へ?」
よほど紅薔薇さまが来ないことが憂鬱なのか、紅薔薇のつぼみはいまいち状況を分かってないような声を出す。それでも、ヒートアップした黄薔薇のつぼみはお構い無しだった。
「祐巳さん、あなただけが頼りなの。私の催眠術にかかって」
「ええ!?」
やっと事態を飲み込めたのか、紅薔薇のつぼみは黄薔薇のつぼみの無茶な要求に驚いた。
―――けど、
「大丈夫。祐巳さんならかかると信じてる。むしろ、かからなきゃ祐巳さんじゃない」
うん、私もそう思う。
「そんな無茶苦茶な」
困惑する紅薔薇のつぼみを、こっちこっちと、黄薔薇のつぼみは強引に部屋の隅へと引っ張りこむと、先ほどまで黄薔薇さまが座っていた椅子に座らせる。
「さぁ、祐巳さん。あなたは犬になるのよ!」
「そんなあ」
ビシッと紅薔薇のつぼみを指差す黄薔薇のつぼみ。いまいち緊張感に欠ける。
「どう思います、志摩子さん」
「犬になるに五百リリアン」
「は?」
「あ、私も犬になるに三百リリアン」
「黄薔薇さま!?」
数分後。
「くぅ〜ん」
「祐巳さん、あんた早すぎ……」
部屋の隅ではものの見事に催眠術にかかった紅薔薇のつぼみと、少しヘコンでいる黄薔薇のつぼみがいた。確かに素人の催眠術にあっさりとかかる紅薔薇のつぼみって。
「ハハ……犬になった祐巳ちゃんも可愛いね」
渇いた笑いと引きつった笑みを浮かべた黄薔薇さまは紅薔薇のつぼみの頭を撫でる。紅薔薇のつぼみは不思議そうに首を傾げて、わんと、一回だけ鳴いた。
その時だった。ギシ、ギシ、と聞き憶えのある足音が近づいてくる。この山百合会に入って約一ヶ月。まだ自信はないが山百合会の幹部なら大概は覚える、階段の足音で誰かを見分ける技術を身につけた私はその聞き憶えのある足音に戦慄した。その足音は、まるで……
「わんっ!」
「祐巳さん!」
まるで本物の犬のようにその音を聞きつけた紅薔薇のつぼみは飛び込むように、扉へと駆け寄り勢いよく開けて扉の先にいる人物に飛びついた。扉を開けようとしていたその人物はタイミング良く、紅薔薇のつぼみを抱きとめた。
「ゆ、祐巳……?」
「わん! わん!」
紅薔薇さまも流石に目の前の状況を飲み込めてないのか、目を白黒させながら紅薔薇のつぼみと乃梨子達を交互に見ている。しかし、それも僅かな間のことだった。
ペロ。
紅薔薇さまに抱きついていた紅薔薇のつぼみは子犬のように舌で紅薔薇の顔を舐めたのだ。しかも、唇。
「―――!!」
突然、世界がスローモーションにでもなったかのように紅薔薇さまの体はぐらりと不自然に揺れ、倒れた。
「祐麒くんの次は祐巳ちゃんか。祥子を二度も卒倒させるなんて福沢姉弟恐るべし」
「お姉さま」
「ごめんごめん」
とりあえず乃梨子達は倒れた紅薔薇さまを会議室の中へと運び並べた椅子の上に寝かした。
確かにこれで卒倒したのは二度目だが今回はとても穏やかと言うか、端的に言えば鼻血出して幸せそうな顔をしている。
「まず祐巳さんを元に戻さないと」
黄薔薇のつぼみはそう言って、紅薔薇さまにくっついて離れない紅薔薇のつぼみを見やる。いや、くっついて離れないのではなかった、紅薔薇さまは倒れた後でも右手で紅薔薇のつぼみの袖をしっかりと掴んで離さないのだ。恐るべし紅の魂。
黄薔薇のつぼみは席から立ち上がり紅薔薇のつぼみの隣につくと、「あなたは元に戻る」と、言って手を叩いた。おそらくそれが催眠術を解除する鍵なのだろう。
しかし、
「わん!」
「わん?」
元気な紅薔薇のつぼみの声と、変に裏返った黄薔薇のつぼみの声が響く。どうやら紅薔薇のつぼみが元に戻らないらしい。その後も何度も解除を試したが戻る気配は無い。
「ど、どうしよう」
「叩いてみる?」
「令ちゃんっ」
元に戻らないという、結構大変な事態だというのにいまいちそこに緊張感はなかった。事情が事情なだけに仕方ない気もする。
「まぁ、自然に直るでしょ」
「で、でも祐巳さんのことだからずっとこのままかもしれないじゃない」
黄薔薇のつぼみ、何気に酷い。
「そんな心配は必要ないわ」
予期せぬセリフに山百合会全員が顔を見合わせる。見合わせて、それが紅薔薇さまのセリフだと気付くのにそれ程時間はいらなかった。
山百合会メンバーの目が紅薔薇さまに集中する。
「妹の不手際は姉の責任。私がしっかりと元に戻すわ」
そんな鼻血全開で言ってもなぁ。
「嘘よ! 祐巳さんを調教するに決まってるわ!」
黄薔薇のつぼみ、何があった。
「フフ……まぁ、元に戻らない場合はそれも仕方ないわね」
爆弾発言をする紅薔薇さまに紅薔薇のつぼみは嬉々としてじゃれついている。なんか可哀想に思えてきた。
「こうなったら……志摩子!」
しばらく静観していた黄薔薇さまだったが、パチンと指を鳴らして志摩子さんの名前を呼ぶ。乃梨子が隣に座っているはずの志摩子さんの方を見ると、既に志摩子さんはいなかった。
次の瞬間、何かが衝突したような鈍い音が響く。その方向に乃梨子が目を向けると、紅薔薇さまの首筋を狙った志摩子さんの手刀を片手で紅薔薇さまが止めていた。
「そんなっ」
そんなって。
「紅薔薇の名を舐めないことね」
驚愕する志摩子さんに、鼻血も絶好調な紅薔薇さまはそう言いきると、紅薔薇のつぼみの肩に手をかけて部屋を出ていく。その間は、皆一様に紅薔薇さまの訳の分からないプレッシャーに閉口するしかなかった。
ドアがゆっくりと閉まる。
「……なんだこれ」
やっと突っ込めた。
あれから一週間。依然として紅薔薇姉妹は学校に姿を見せない。十中八九、黄薔薇のつぼみの言うとおりだと全員が気付いていたがそれを口にするものはいなかった。
乃梨子は薔薇の館の窓から、高くなる太陽を見上げた。その手には『しばらく山に篭ります』との志摩子さんの書き置きが握られている。
そろそろ、夏も近い。
〜終わり〜
〜あとがき〜
ごきげんよう、島原です。こちらにもお邪魔しました。
ちょくちょく顔を出しているので見掛けたら気軽に声をかけてやってください
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